現代社会は、知識偏重の時代である。それを科学というのならば、科学には、仁も義もない。その行きついた先が、原子爆弾である。原子爆弾や生物化学兵器に正義はない。恐喝である。いつから、科学は、大義を失ったのであろうか。
智は、力である。石油もガスもそれ自体は危険物である。それを制御する機械や設備があってはじめて人間の役に立つ。石油もガスもそのままの状態で放置すれば危険きわまりない。石油やガスを人間の役に立つようにするのは、人間の知恵である。智もまた、力である。智を人間の役に立つように制御するのは、仁と義である。
その仁義が現代社会から失われた。だから、智を制御する事が現代社会ではできなくなったのである。その為に、智の力の暴走が現代人を苦しめている。
確かに、智の力によって科学文明は栄えた。しかし、それによって多くの者を失ってきた。失った多くのものを取り返すのは、仁義礼の力である。
包丁は、扱い方一つで人の役にも凶器にもなる。智もまた然りである。扱い方一つで人類の叡智にも愚かさにもなる。科学が人間の知恵の結晶なのではない。科学の成果をどのように活用するのかにこそ人間の知恵は、問われるのである。その根本は、人類愛、則ち、仁愛なのである。
智とは、知識、知恵である。智とは、真実である。智は、理(ことわり)、理性である。
智の元は、経験である。情報である。
情報を整理し、解析してはじめて知恵となる。しかし、情報を整理しただけでは知恵にはならない。それを仁と義と礼に照らし合わせてはじめて知恵となる。
知らざるを恥とせず。学びざるを恥とする。それが智である。知る事のみが智ではない。知って活かすことが智である。
情報は、体系化されて知識となる。知識は、発展して知恵となる。情報から知恵に発展させるのは、仁と義である。
原子爆弾を開発した者達を先進的というのであろうか。ならば、先進的というのは、悪逆非道である。良知には、人間対する洞察なくして至れない。
智は、仁と義と礼によって実体をあたえられて知恵となる。科学は、その目的である人類の恒久的平和、そして、義である法則、そして、礼である技術によって成り立つ。根本の仁が欠ければ、全ては、愚行となる。
致良知。良知は、人間本来の英知にある。ただ言葉の上だけの理解は、真の智ではない。それは、人生に生かされてこそ、良知となるのである。
良知とは、良識・常識である。何が、自分が生きていく上で必要な情報かを見抜き、見分ける知恵、それが良識、常識である。現代社会は、情報が氾濫している。だからこそ、何が自分にとって必要な情報か、大切な情報かを見抜く力が大切なのである。必要な情報を選別する認識力こそ良識であり、常識なのである。それが良知である。故に、人は、経験をつみ、勉強を怠らなければ良知に至るのである。
知識は、経験や体験によって実証されるべきものである。それが科学である。科学が成立したのは、元々裏付けのない知識を観察や実験によって検証することによって事実と結びつけたことによる。しかし、それだけでは、真か偽かを明らかにしたに過ぎない。知識を是々非々によって体系付けてこそ知恵となる。
事の是非善悪に新旧老若男女の別はない。在るのは、真実である。何が、正しくて何が間違っているのか。何が真実で、何が嘘偽りなのか。その判断に新しい古い、都市をとっているのか、若いのか、男であるか、女であるかは、関係ない。心を澄ませて事実を見極め、誰の言っているのが真実かを見定めなければならない。
在ってほしくない事柄が在ったとしてもその事実を受け止めなくてはならない。戦争は悲惨だ。しかし、いくら戦争を否定しても実際に戦争になってしまったら、それを認めないわけにはいかない。地震や津波、台風の被害というのは、甚大である。だからといって、現に起きてしまった地震や津波、台風の被害をなかったことにすることはできない。過ちを認めることは辛いことである。しかし、過ちを認めなければ悔い改めることはできない。
つまり、大切なのは、事実である。そして、事実は一つである。その事実を見極めることである。偏見や先入観を捨て。透明な目で事実を正しく見極める。その時、真実が見えてくる。そして、為すべき事も明らかになる。純粋で、曇りない、嘘偽りのない目による、正見、それが智の前提である。智とは、勇気がなければ確立できない。正しきを見、正しきを認め、正しい判断をする。正見、正思、正念、正定、正直それが智である。その為には、明鏡止水の境地に達せねばならない。
智の根源は、認識である。正しい認識である。曇りのない目で対象を捉えることである。その時、問題になるのが人間の意識である。また、価値観である。ところが、人間の認識は、相対的なものである。何らかの基準なくして対象を識別することができない。
先入観や偏見に囚われると正しい認識ができなくなる。真実が見えなくなる。だからこそ、意識が働く前の認識、直観、直感、第一感が重要になってくるのである。
真実から目をそらさず真っ直ぐに見る。それが観察である。また、事実によって検証する。それが実験である。観察や実験から得られたデータに基づいて仮説を立てる。仮説は、厳密な論理的手続きや数学的論理によって論証する。それが科学である。ただ科学は、物理的事象に関しては、威力を発揮するが、人に生き方のような道義的な問題においては、効力を発揮しない。原子爆弾を造る技術は提供できても、原子爆弾の是非を判断する知恵は与えてくれないのである。原子爆弾の是非の判断は、道義的問題である。人倫の問題である。この道義的問題を軽視したか、無視したところに現代の不幸がある。
在るが儘に受け取り、在るべき姿に換える。それが、本来の知恵である。在るべき姿は、仁と義によって与えられる。それが徳である。故に、真智とは、仁義に基づいて形成される。
例え、自分にとって不都合な事、不愉快な事でも、現実、事実を直視し、その根本原因を明らかにして、在るべき姿、対策を求める。それが智である。
真であって善ではない。善であっても真ではない。真であっても美ではない。美であっても真ではない。世の中の物事の多くは、かくの如しである。しかし、求めるべき境地は、真善美一如である。智はそのとき叡智となる。
人は、幸せな時、天を侮り。不幸になると天を呪う。しかし、天は、天だ。人の思惑など無縁である。天の力を必要としているのは、人間であり、天は人間の力を必要としていない。天は、自らの法と力によって動いている。だからこそ、人は、天の法を知り、天の力を知らなければならない。天を侮っても、天を呪っても、仕方がない。その報いは自分に帰す。天の法を知り、おのれの為すべき事を知る。それが智である。
知識は、実体的裏付けがなければ妄想に過ぎない。だから、日本人は、実践・修業・修養・修道を重んじたのである。故に、日本人にとって教育は、本来、道であり、智ではない。実践なのである。
日本の戦後教育は、この道を捨てた。そして、知識偏重の教育が為された。仁義礼が軽んじられたのである。仁義礼智は、お互いが補完しあって効果・徳を発揮する。故に、戦後の教育には、徳がないのである。
科学も本来、この実践の延長線上にある。しかし、いかんせん仁義・正義・大義がない。愛がない。故に、非人道的兵器を生み出し、環境破壊を引き起こしているのである。
性の知識は教えられても、愛する事は教えられない。それは、智の限界である。教育は、この智の限界を正しく認識した上で為されなければならない。
愛の真実。愛の正義。愛の美。この三つが一体となった時、愛は実現する。それは、純である。
真善美一如。義礼智が仁によって一体となった時、真と善と美も一体となる。真と善と美が一つのごとくなった時、人間の叡智は、花開くのである。それが良知。致良知。
智が欲に支配された時、人は破滅する。真と善と美の調和なくして、真の発展はない。真と善と美を調和させる力こそ、仁なのである。
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