忠といって思い浮かぶのは、忠勇愛国とか、武士道とか、封建的といった無骨で古めかしい、古色蒼然といたイメージであるが、忠の実際の有り様は、純愛に近い。というより、純愛そのものである。
忠とは、純愛である。惚れることである。忠の根本は愛である。惚れた相手に一生添い遂げることができたら無上の喜びである。変わらぬ想いを互いに持ち続けることができたら、それに変わる幸せはない。だからこそ、古来、忠を最上の徳目としてきたのである。それが近年、忠の意義が、国家への無条件の服従を意味するような間違った認識によって支配されるようになった。それが、忠誠心を否定する考えとつながっている。
忠愛とは、愛する人に身も心も捧げ尽くす事である。真心を尽くして愛する事である。それが成就できれば、それ以上の幸福を望みようがない。しかし、愛が成就するには、相手が居るように、一方的な片思いでは愛は成就しない。忠義も同様である。忠は、一方的な思いこみや押しつけでは成り立たない。何よりも相手への思いやりが必要なのである。忠が成就するためには、相思相愛の関係が前提なのである。相思相愛の関係を築くためには、愛を強要するのは、野暮である。
故に、忠には、恕が大切になる。忠恕である。恕とは、自分を慈しむように相手を慈しむ心である。恕とは、相手を許し受け入れることである。この相手の良いところも悪いところも許し受け入れ、相手を思いやる心と相手に献身的誠を尽くす心が一つになって忠恕は成就するのである。
忠は、自発的意志である。ただ、服従、隷属することを意味するわけではない。強要されるものでも、できるものでもない。為政者は、自分個人への忠誠を求めるが、それは、もてない男が、愛を強要するようなものである。偽りの愛、忠誠心しかえられはしない。
忠とは、尽くす喜びである。尽くすと言う事は、個人主義者、自由主義者、民主主義者にとって最上の喜びである。愛は、尽くす喜びに尽きる。我を忘れて尽くす事ができれば、人は、囚われから自由になり、自信がつき、自己が確立される。献身は、個人主義最高の徳である。故に、忠は、個人主義、自由主義、民主主義の最高の徳なのである。
ドンキホーテのように、理想主義者は、尽くすべき相手を求めて諸国を遍歴するのである。
欧米を中心に、人と人との関係を対立的にとらえる考え方が横行している。対立、抗争、強壮、闘争を世の中の基本とする考え方である。市場は競争であり、労資は階級闘争である。こういう社会では、人と人との間を取り持つ世話役というのは成り立たない。人に尽くす事自体が成り立たないからである。そう言う社会では、人に尽くすというのは、愚か者のやることである。自分のことしかやる必要がないと考えるのが、個人主義だという間違った認識が支配してきたからである。しかし、無心に人に尽くす事で、自己を余すところなく、実現する。それは、個人主義、最高の境地である。熱中・夢中・忘我によって恍惚となるところに自由の実現がある。それは、個人主義者最高の快楽である。その典型が、スポーツである。
かつては、社会の至る所に世話役が居た。隣の親父が世話役だったり、大家が世話役だったり、親戚のおばさんが世話を焼いたり、学校の先生や上司の奥さんが世話焼きだったり、先輩、兄弟子、何かと用があると必ず世話焼きが居た。それが当たり前だった。大体会社の総務は、一種の世話役だった。世話役は、社会の潤滑剤であり、教育者・指導者でもあった。縁結びでもあった。仲人という制度は、自発的なものである。世話役が居なくなったから、人は、無責任になった。人情を解さなくなったのである。困っている人がいたら、助けるのが当然という発想は死に絶えた。組合に言わせれば、世話を焼くのは不当労働行為になる。懐柔策になってしまう。それでは、意志の疎通が悪くなるのは当然である。人間関係が殺伐とする。だから、公共道徳が廃れるのである。治安が悪くなるのである。ひきこもりが生まれるのである。互助の精神こそ忠である。
世話役の本質は、忠愛である。社会への忠誠である。かつての社会には、それを受け容れる素地が在った。現代社会は、人と人との間に、仁愛を置かない。故に、世話役の忠愛を受け容れないのである。下心なく人と人との間を取り持ったりはしないと疑るからである。功利主義的考えで、人は、自分の徳にならないことはしないと教え込まれているからである。素直に人の忠愛、忠告を受け容れられなくなってしまったのである。
忠の淵源は、恩である。
犬も三日飼えば恩を忘れないと言う。翻って言えば、犬も、最低三日飼わねば恩を感じないという事である。つまり、餌をやって世話を役というのが、恩の源である。恩を感じさせようとすれば、恵みを与えなければならない。恩も強要できるものではない。天の恵み、親の恵みは、所与の恵みである。だから、天や社会、親の恩は、全ての人間関係の基本となるのである。しかし、恵みがなければ、恩はなく。恩がなければ、忠は望めない。国民に恵みを与えない国は、国民から忠誠心を、望むことはできないのである。
忠も恩も自発的な感情であり、だからこそ、根本的徳目になりうるのである。ところが全体主義的国家は、忠も恩も強要する。故に、全体主義的国家を経験した国民は、忠も恩も信じなくなるのである。
見返りを求めない世話役こそ忠と恩の体現者である。
忠とは、心の真ん中と書く。気を籠めれば心となる。心は、自己の気が生まれ、集まるところである。気が集まれば力となる。生きる力の根源が心である。その真ん中にあるのが忠である。故に、忠は、生きる拠り所、生き甲斐なのである。
人生を有意義なものにしようとしたら惚れることである。惚れるとは何か。つまり、惚れる対象とは何か。第一に、事業・仕事である。第二に、人である。第三に、異性である。この三つが生き甲斐を持つために、不可欠なものである。全てを実現する必要はない。たった一つでいい。いいや、たった一つ、惚れる対象を見つけだすこと、それが幸せになれるか否かの鍵である。欲張っては生けない。たった一つ見つけだすのである。それが、忠の極致である。
事業とは、何か、それは事を為す事である。事を成就する事である。事業の本質は、創造であり、その究極的なものの一つが、国造りである。愛国心は、その現れである。人に惚れるとは、その人の人格に傾倒することである。徳を慕うことである。異性に惚れるとは、愛する事である。いずれにせよ、惚れるとは、忠する相手を見出すことである。故に、忠は、自分に求めることであって他人に求めるものではない。忠とは、惚れる事、愛する事。忠誠とは、嘘偽りのない愛、則ち、純愛なのである。忠義とは、義によって愛する事なのである。
忠誠心とは、誠を尽くす心である。誠とは、嘘、偽りのない姿勢、態度、行いである。嘘、偽りのないという事は、私がないという事である。私がないというのは、無私無欲な在り方である。無私無欲とは、無我の境地である。無我とは、自己を極めた世界である。
無私とは、自己を捨て去ることではない。自己に徹する事である。自己に徹する事によって自他が一体となる。そうすると、他者の利益を追求することは、自己の利益を追求することと同じとなり、自己の幸せを実現する事は、他者の幸せを実現する事となる。結局、無私となる。欲は、我が生むのである。自己を徹する事により、我を捨て去り、無欲となる。そのとき、行いが誠となり、誠心誠意となる。それは、忠なることなのである。誠忠なる心、それが忠誠心である。
忠を極めるとは、一心不乱、無我夢中になることである。無私無欲というのは、その結果である。その行いは、一所懸命、誠心誠意を尽くす事である。それが忘我の境地である。故に、忠を尽くすとは、一種の修業である。忠誠は、恍惚としたものであり、忠義を尽くすのは、無上の喜びである。故に、忠誠心は信仰心に通じる。
仁(愛)のない、忠は、心ない。心あらずば、忠は成り立たない。
志によって与えられた目標・対象に、仁の力で、義に基づき、礼によって整えられ、対象に向かう働きが忠である。
忠とは、自分が守るべき者に向かう働き。働きであるから、自分が守るべき対象に対して誠を尽くすと言う事である。
宗教であれば、自分の信じる対象に対して、国であれば、国家に対して、嘘偽りのない心で、誠を尽くす。それが忠である。
自分を自分以外の対象に投げ与えていく事、それが忠である。だからこそ、その対象によって忠は、その姿を変える。相手を間違ったり、相手に拒否されると、忠が強ければ強いほど悲劇的になる。しかし、それは、真実の忠ではない。なぜならば、自分がないからである。私心がないと言うことと自己を見失うと言う事は違う。私というのは、自覚以前の自己に対する認識である。自己を自覚すれば私心はなくなる。そのとき、人は自由になり、忠に徹する事ができるようになる。
ストーカーが良い例である。あのような行為は、歪んだ愛の姿であり、妄執、執着心であって愛でも、忠ではない。仮装の愛、偽の愛であって真実の愛ではない。ただ単なる思いこみである。それは自己の存在ではなく、邪な私の妄想・自我から出た思いこみである。それは、淫らな執着心となり、自己の尊厳を汚す。間違った認識から発する愛国心も忠誠心も同様である。
真の愛国心も忠誠心も無邪気・至純なる想い、愛よりいずる。
仁は忠恕(ちゅうじょ)として現れる。愛は、忠(ちゅう)と恕(じょ)である。忠とは、真心(まごころ)からの想いである。恕とは、思いやりである。己の欲せざる所、人に施す事なかれ、即ち、恕である。(論語)つまり、思う心と思いやる心その二つがなければ愛は、成就しない。相手を見ずして、ただ自分だけの思いこみだけで相手に尽くすのは、執着であって愛ではない。自分の思いばかりを相手に押し付け相手への気遣い、思いやりかがなければ、それを愛とはいわない。愛して愛してと泣き叫び、相手の思いを無視して、愛されたいと願うのも、愛ではない。
愛というのは、相手を温かく見守り、思いやる事、即ち、寛恕(かんじょ)である。相手をひろやかな気持ちで許し、受け容れる包容力こそ愛、恕である。そして、自分に正直に真心をこめて相手に尽くす事が忠である。忠恕である。忠恕は、仁の基本である。
忠は、正直でもある。自分の正直になることである。忠は、直を求める。直たらんとする。なぜならば、忠とは、一途な想いであるからである。その根本は、純であることである。つまり、忠の本質は、至純である。
正直は、日本人の徳目である。この八徳が、誠に集約されたところに日本人の価値がある。その日本人の価値が今日の日本の繁栄を支えているのである。誠は、愛の純真。真心である。
忠義とは、義を愛する事である。忠節とは、義を愛し護ることである。
忠実とは、実を尽くす事である。実を尽くし、自分に正直に在らんと欲するところに義は生じる。この義を愛する心が、それが忠義心である。自己に正直にあろうとすることは、即ち、自愛である。故に、忠の根本は、仁義なのである。
この忠義心に基づいて行動する時、国家正義が実現する。それが、国造りである。国造りは、国家正義の実現にある。だから、大義なのである。正義が失われれば、国家の意義も失われる。国家正義は、自己善の延長線上にある。自己善を極めると言う事は、自分に衆時期になることである。自己が純になることである。至純こそ、忠の究極の姿である。
修身、斉家、治国、平天下。それが、忠義の一本筋である。
盲目的な愛国心は、真の忠義ではない。
忠の向かうべき方向が問題なのである。封建時代ならば君主に忠は向かっていた。封建領主、君主は、自らから出たものではない。よそから与えられた者である。だから、真実の想い出はない。忠の本来の対象は、自らが生み出したもの、想いであるべきである。だからこそ、国民国家こそ、国民が忠たらんとする対象なのである。なぜならば、国家は、国民に忠たらなければならない存在だからである。国民国家である民主主義において、国家と国民は一体である。国民国家体制である民主主義体制では、忠は、国民の安寧に向けられる。故に、国民は、国家に対して忠誠を誓うことできるのである。国家に従って国のために働き戦うのも忠ならば、国家を変革し、革命を起こすのも忠である。
自分の愛する国を汚し、侮辱し、侵す者に対する激しい怒りや自分を産み育ててくれた国土、古里に対する深い愛情と感謝の気持ちから発するのが忠誠心である。自分に対する天の恵み、国の恵み、親の愛。それを日本人は、恩という。その恩に報いようとする心が、忠誠心なのである。
民主主義国にとって愛国心は、一種の信仰のようなものである。それは、国民が建国に参加しているが故にである。事を成す、自己実現の究極の姿が、国造りだからである。
愛国心、そして、忠誠心。民主主義国ほど忠誠心を求める国体はない。なぜならば、国民国家である民主主義国の国民にとって国家は、母であり、子であるからである。つまり、国家は、愛する者の象徴だからである。
誰だって人を愛することはできる。それが忠のはじまり。
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