克己復礼。己に克ちて礼に復(おさ)む、それが仁である。
不仁にして礼なし。
礼とは、形式である。しかし、その形式を支えているのは、仁(愛)である。そして、礼の根本は義である。志である。だからこそ、礼は、凛としている。礼を保つのは、自分に課した矩(のり)だからである。
礼の基本は自制心である。自制である。
法をもって治めるのではなく、礼をもって治める。礼は、節度である。道義である。故に礼で試されるのは、自制心である。法という外部からの強制によって身を正すのではなく。義という内面の矩(のり)に従い、礼という形式によってその身と行いを正すのである。それが礼儀である。
法に従うのではなく、自らの定めに従う。それが日本人の矜持(きょうじ)であった。自らの定めがなくなれば、ただの無法者、放縦に過ぎない。我が儘である。人に言われてするのではなく、自らの意志、信じる事に従って行う。だから、誇りであり、過ちを恥じ自らが正すのである。罰せられるのを怖れるからではない。それが礼の根本である。
仁を忘れて形式にこだわる。それが、今の日本人である。形式は大切である。しかし、礼節にとって仁は、魂である。形式は、肉体である。魂のない肉体は、屍である。醜いばかりであり、やがては朽ち果てる。屍を残して崇拝する者達がいるが、それこそ自分達の本質を現している。大切なのは、魂である。しかし、それを生かすのは肉体である。生ける者にとって二つなりに大切なのである。形式に囚われて義を失う。それは、礼の本義ではない。
かつて、日本は、礼の国と言われた。何事も、礼にはじまり、礼に終わる。それが日本の精神文化であった。ところが、今日、日本は、最も礼節を忘れた国になろうとしている。
なぜ、日本人は、礼儀を忘れたのであろう。なぜ、礼節を蔑む(さげすむ)ようになったのだろう。それは、一つは、礼儀の形式主義にある。
礼は、不文律、不文法である。礼というのは、絶対にこうしなければならないとか、これが正しいという形はない。礼は、成文法ではないのである。風俗、習慣、慣行が洗練されたものにすぎない。型や形それ自体に、意味があるわけではない。意味があるのは、その形館の背後にあるものである。礼そのものは、表現に過ぎない。だから、礼は、形式なのである。
故に、礼の根本は、美である。礼の根本は、善悪ではない。真偽でもない。美醜である。だから、礼は、形にこだわるのである。
礼を失えば恥である。それは、内面の規律に礼が基づくからである。戦後の日本人が形を軽視し、形を否定してしまったからである。形式を否定する事があたかも自由主義、民主主義であるかのごとく教え込まれたからである。所かまわず落書きをし、不作法、見苦しい態度、服装、姿をさらしても何ら恥じる事がない。礼を失うことによって日本人は、誇りも、正義も、道義も失ってしまった。それは、社会の秩序、治安の乱れにつながり、法の強化を招くことになる。
美しい生き方、在り方が求められなくなり、薄汚れた生き方や姿を追求する。それを奨励したのが、戦後の教育界、知識人、メディアである。それは、歴史伝統の否定でもある。日本の形の否定である。しかし、今日の日本の繁栄は、日本の形によってもたらされた。日本人が日本の形、和の形を失い。その審美眼をなくしたら、日本の繁栄は幻になる。日本の今日を築いたのは、我々の先祖から伝承された和の形なのである。故に、日本は礼(かたち)の国と言われてのである。
礼は、形式である。故に、礼儀は、形式主義である。しかし、ここで言う形式主義というのは、広義の意味での形式主義である。よく、形式主義を狭く捉えて批判する者が居る。それは、形や形にとらわれて礼の本質を理解していないからである。礼は、広義の形式主義である。しかし、注意しないと狭義の形式主義や形骸主義に陥る。
型や形のこだわったり、囚われるのは、狭義の形式主義である。それは、真の形式主義ではなく、形骸主義である。
形から入る。型から入る。形、型から入るというのは、形や、型は、入り口に過ぎない事を意味している。
形というのは、肉体のような物である。肉体がなければ、自己は、自己を外部に表現することができない。肉体も、魂がなければ、ただの骸にすぎない。この様に、自己の魂と肉体は、相互に依存しているのである。どちらか一方だけでは成り立たない。仁と礼儀も同じである。仁なくし礼節なしである。
故に、礼は、心技体に依って成り立つ。心技体が一つになってはじめて礼は、完成する。それは、人生の美学である。自分の生き方・死に様によって表す美が礼である。男の美学、女の美学である。
礼は、芸術である。礼は、表現である。自己の内面を表現する事である。故に、礼が追求する所は、美である。自分の心を形に表すことである。だから、自分の立ち居、振る舞いにこだわるのである。それが礼である。
礼とは、挙止動作の型として表現される。それが、作法である。指先から足の先まで身体の隅々に至る緊張、それが究極の美である。呼吸である。張り詰めた緊張の中で礼は息づくのである。それは、修道である。修業である。道を究めることである。故に、礼に始まり、礼に終わるのである。
体面・面目・体裁を重んじて、礼を失う。礼は、生きることの本質。素の自分と向き合う事。虚飾をはぎ取り、自分の魂を純化することである。純なのである。故に、体面や面目、体裁にこだわれば礼を失う。
日本の礼の根本は、和の精神である。
和して同じず。だから、礼が、大切なのである。
社会が落ち着いてくると、乱れを嫌がるようになる。それが、秩序や和を乱す事に対する過剰反応を引き起こし。俗に行儀ばかりを気にすることになる。周囲の目を気にして臆病になる。その場の雰囲気を乱す事を怖れて、何も発言できなくなるのは、本末の転倒である。
自らの信念、志に従う時、自ずと礼は生まれる。相手の名誉を傷つけたら、相手が誰であろうと怖れる。しかし、顧みて自ら直ければ、どんなに敵が居ようとも、吾一人往く。それが礼の本意である。故に、礼の本質は、仁なのである。浩然の気を養う事、即ち、礼である。周囲の目を気にして、ただ周囲に迎合することを礼というのではない。礼儀作法といいながら、形に囚われて志を捨てるのは、本末の転倒である。
ここでもう一度再確認をしなければならない。行儀ばかりを気にするのは、良くないと言うと、行儀は、悪いと早とちりをする者が出てくる。形式でも、行儀でも、それだけをことさらに強調するのは、良くないと言っているのであり、形式や行儀そのものを悪いと言っているわけではない。どちらにせよ、囚われてしまうのがいけないと言っているのであり、そういう事を言うこと自体が、既に囚われているのである。これは、礼儀にも言える。形式も、行儀も、礼儀もそれ単独で成り立っているのではなく、その背後にある姿勢や思想、環境や状況と言った、他の要素と組み合わせてはじめて、有効に機能するものである。
乱れを正すのは、形式である。礼節を重んじれば、激しく意見を戦わせたとしても和を乱す事はない。そして、その根本にあるのは、その人、その人の志、信念、腹である。故に、礼の根本は、姿勢なのである。
他人に言われて正すのを恥、怖れる。故に、自らの義によって自らを正す。それが美である。礼である。
日本の若者達から、礼が廃(すた)れようとしている。形式を戦後、馬鹿にしてきたからである。礼を封建的なものとして一方的に決めつけてきたからである。無礼・欠礼を是として躾(しつけ)ておいて、礼儀知らずだと誹(そし)るのは、卑怯である。無礼・失礼、形式は悪い。それを自由主義、民主主義だと若者達は、思い込んでいる。儀式典礼は、非民主的だと錯覚している。とんでもない、アメリカやフランスといった民主主義の宗旨国は、皆、儀式典礼を重んじる。それは、自由と民主主義の象徴だからである。民主主義だからこそ、礼節を尊ばなければならない。民主主義は、象徴的な思想である。アメリカがフランクな付き合いをするのは、それが、アメリカ流の礼儀、作法だからである。法だけで国民国家である民主主義は治まらない。民主主義には、儀式典礼・式典が必要なのである。国民国家は、国民一人一人の理性、道義心の本に成立しているからである。国民一人一人から自制心がなくなれば、強権をもって国を統治しなければならなくなる。そうなると民主主義は滅びる。故に、礼節は、民主主義の基本である。民主主義には、民主主義的な礼が不可欠、必要なのである。
礼に始まり礼に終わる。それが、人生究極の姿・美である。
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