愛の構造
現代社会は、何でも対立的に捉える。この世を対立的に捉えれば、戦いと争い、競争の世界になる。反対に、この世を融和と統合の世界と捉えれば、愛と協調の世界になる。
男と女。家庭と仕事。学校と生徒。個人と社会。会社と社員。国家と国民。神と人間。これらの関係を現代人は、全て対立関係によってとらえようとする。
我々が、個々の関係をどのようにとらえるかは、任意の問題である。確かに、対立的に捉えようと調和的に捉えようと、それは、人それぞれ、自由である。しかし、捉え方によって全く違った世界になることを忘れてはならない。最初に結果ありきではなく、この世をどのような前提によって捉えるかが重要なのである。
現代人の物の見方に従うと、この世は、まるで対立と闘争の世界、憎しみと諍いの世界のようだ。それでいて愛を説く。それはお門違いである。最初から絶望的な前提に立っていながら、最後に愛にすがってみても仕方がない。
現代社会を構成する共同体を基本に考えれば解る。ちなみに物事全てを、対立的に捉えるものは、共同体の存在そのものを否定してしまう。しかし、社会は、いろいろな共同体によって成り立っている。何者も頼る者がいなければ人は生きていけない。何者も頼れなければ人間は生きられない。人間は一人では生きていけないのである。だからこそ、人は何らかの共同体に属している。共同体に求心力がなくなれば共同体は存続できない。その共同体を繋ぎ止める力・求心力は、愛の力である。対立してばかりいたら、人間関係は持たない。
過激な男女同権論者からみると男と女は、永遠に解り合うことのできない、仇同士のようだ。これでは愛が成り立つ余地など何処にもない。彼等にとって愛し合う者同士が、何事も、分かち合い、助け合い、認め合い、補い合うことは許せないのであろう。とにかく何事も男女同じでなければ気に入らないか、どちらか一方が(特に、女性が)優れている事を認めないかぎり妥協しない。男と女は、不倶戴天の敵である。最初から愛がない。女性の社会的地位や社会進出を認めるとか、認めないとか言う以前の問題である。だから、男女同権論者の言う男と間には、SEXしかなくなってしまうのである。それを自由恋愛といわれても、最初から愛などないのであるから。
同様に、反体制派の言い分を聞くと国家は、国民の圧倒的な犠牲の上に成り立っているようである。国家は、存在そのものが悪なのである。妥協の余地などない。愛国心など反吐が出る。国民と国家の間に妥協点がなくなれば、どんな国家も成立しない。それは、無秩序で力だけの世界になる。
家族ですら現代人は、対立的に捉える。男と女の間に性しかないのならば、夫婦なんてただ、肉体的、経済的関係以外のなにものでもなくなる。離婚が増えるわけである。夫婦や家族を支えるのは、愛だけである。
愛は、本来一体感を求める。愛する者同士は、一つになろうとする。一つに統合しようとする。それが愛の本質である。
人倫の基本は愛である。愛は、国や文化によっていろいろに姿を変えてきた。しかし、いずれにせよ、社会をまとめ上げる偉大な力は愛である。
故に、愛は、人倫を支える力である。愛は、自制する。愛があるから、人は我慢するのである。さもなければ同じ屋根の下で暮らせない。愛は、許し合うことなのである。愛こそ、人倫の基本である。
中国において古来から人倫の基本は、八徳であるとされてきた。八徳の根源は、仁である。仁は、慈悲に通じる。仁は、普遍的な愛である。博愛である。仁を中心にして徳は形成される。
仁は、本源的力を表し、義礼智は、枠組み(構造)を意味し、忠信孝悌は、働き(機能・作用)を示す。この様な八徳の有り様は、体制の在り方によって変化する。封建秩序の中での八徳に対し、自由主義体制での八徳の現れ方は違う。重要なのは、八徳が有する構造なのである。
昔は、この様な徳は、対人的、属人的な方向や働きに限定されていた。八徳の働きが、属人的な働きから解放され、公的な方向、理念的、観念的対象に向けられると民主主義や自由主義にも適合することが可能となる。つまり、国民に対する仁を基本に民主主義的義と礼と智が確立し、忠、信、孝、悌の働きが成立した時、民主主義体制はより強固なものになる。
仁は、愛。
義は、善。礼は、美。智は、真。
忠は、誠。信は、頼。孝は、行い。悌は、順。
人の本源的な力は、愛である。義を測る基準は善悪である。礼を測る基準は、美醜である。智を測る基準は、真偽・是非である。忠の働く方向は、誠である。真の働く方向は、頼る事である。悌の働きの方向は、従順である。
仁は、憶陰(そくいん)の情を生み。義は、羞悪(しゅうお)の気を与え、礼は、辞譲(じじょう)の心、智は、是非の基準を作る。
善は、善悪の基準の枠組みを意味し、礼は、行動の形式の枠組みを、智は、知恵の体系の枠組みを指して言うのである。
仁、即ち、愛の力が極まった時、真善美は一つとなり、自由は実現する。神の栄光は、仁・自己の愛を通して実現する。真善美は、義と礼と智が一体になった時、発揚する。仁義礼智信は、五常は、愛の構造なのである。
仁の宿るところは、心である。心あらずば、仁愛は、実現しない。ただ、物欲ばかりを追い求め、心の充足を忘れれば、愛は満たされない。心に愛が満たされなければ仁は実現しない。心の充足こそが求めるべき事なのである。
忠信孝悌の働きは、本来双方向の働きである。子に対する親の愛があって孝心は働く。国民に対する国家の庇護があって、国家への忠誠心は生まれる。国民を護ろうとしない国家は、忠誠するに値しない。
日本人は、この八徳にプラス、純という精神を重んじる。純の基準は、清濁である。純というのは、在り方の本質である。純とは、混じりけのない、嘘偽りのない、飾り気のない、素の在り方である。正直は、日本人にとって最高の美徳の一つである。純の最も忌みするところは、罪、穢れ(ケガレ)である。純粋な気持ちこそが、日本人の求める最高の境地である。その究極が純愛である。
人類は愛を忘れた。だから、この世に争いの種が尽きない。自由と平等を高く掲げながら、愛を忘れた。そして、人倫の乱れを愛の性にする。愛があるから争いが絶えないように言いふらす。愛を忘れたから人の道が廃れたのである。
仁があるから、この世の乱れを正すことができる。仁愛は、諸々の事柄を一つにまとめ上げる力。人と人を背かせ、憎みあわせる様なものではない。愛は、合一、合体。愛は、融和。求心力、引き合う力。自立していこうとする自己と愛し合う自己の力が均衡したところで、人の世は、平安となる。だからこそ、仁は、全能の力を発揮するのである。
民主主義国こそ儒教精神の八徳が必要なのである。民主主義的に八徳を見直す必要があるのである。自己愛を基準にして、自己愛が公への愛に昇華した時、自己の内面と外面とが一体となる。愛が成就する。
愛は、モラルそのものである。なぜならば、愛は、人に対する思いやりだからである。
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