愛に絶望しながら、愛に救いを求めている。現代人の不毛の原因がそこにある。行きつく先は、唯物主義的快楽主義である。ひたすらに快楽を追い求める一方で至純の愛を実現しようとしても虚しい。公に殉ずる志がなくして、権勢にどん欲になっても人心を得ることは不可能である。
 刹那的な快楽主義を追求しながら、愛に救いを求めても、所詮、叶わぬ夢なのである。泥沼の愛憎劇を繰り返し、最後に自滅するだけである。
 国家国民に対する愛情なくして権力を維持できる者はいない。底なしの権力抗争に巻き込まれるだけである。公に殉ずる志なくして、国家の大業を成就する事はできない。
 刹那的な愛欲、快楽に身を委ね、悦楽のために子を捨てられるのか。それによって幸せになれると本当に思うのか。愛する者達を裏切り、背信しながら、どうして愛にすがる。それは、自分の愛に自分が背く事なのである。
 幼児虐待。育児放棄。家庭崩壊。少年犯罪。何がそうさせるのか。愛が最初からないからである。仁に背いているからである。
 愛は、愛によって育まれる。
 テロも、戦争も、内乱も仁愛なき、大義なき我利我欲、つまりは、憎悪に端を発している。真に、人々の平和と安寧、幸せを望めば果てしない争いにはならないはずである。ただ、憎しみだけがこの世を支配しようとしている。平和など望みようがない。
 なぜ、愛を信じようとはしないのだろうか。
 幸せとは何か。生きる目的とは何か。それは自己実現にある。仁愛なくして、幸せにはなれない。自己実現ができないからである。自己を見失うからである。自己を喪失するからである。
 愛のない夫婦は、家族を産み、育む事はできない。快楽だけで結びついた男女は、愛を実現できない。家庭を築くことはできない。
 愛する者のために、身も心も捧げる時、自己は実現し、至福の時が訪れる。青い鳥は、自分の心の内にのみ住むのである。
 公の大義を実現するために志す時、政治の意味が明らかになる。生きることの意味が明らかになる。
 ならば、なぜ、自己の幸せと愛する者の幸せ、家族の幸せ、会社、国家の幸せが、相反し、相克すると思い込む必要があるのか。本来、自己の幸せ、愛する者の幸せ、家族の幸せ、会社、国家の目的は、一つに貫かれているはずである。この自己と恋人、夫婦、家族、会社、国家を貫く一本の筋、それが、仁義である。愛である。

 仁は、憶陰(そくいん)の情として現れる。憶陰の情とは、人を悼む(いたむ)気持ち、心である。憐憫(れんびん)である。不憫と思って慰める姿勢である。哀れと思う気持ちである。ただ憐れみ(あわれみ)・同情とは違う。共鳴・共感である。苦しみや哀しみを共にし、そこから、一緒に立ち上がっていこうとする気持ちである。武士の情け(なさけ)である。敗者をいたわり、名誉を重んじることである。敗者は、武運拙く(つたなく)、勝者にとっても明日は我が身、その共感を持って敗者を必要以上に辱め(はずかしめ)ない憐憫の情である。勝ってもおごり高ぶることなく、敗者への礼を尽くす。それが憶陰の情である。その底には、共鳴、共感がある。仁の本質は、人と人との共鳴、共感である。共になき、共に笑う。勝って、負けても、勝敗は時の運。結果が出れば、罪を償えば、過去を水に流して、新たなる関係を作りです。それが仁である。

 似非個人主義者、似非自由主義者、似非民主主義者が説くのは、自我である。エゴである。自己実現ではない。真の個人主義・自由主義・民主主義は、仁愛・博愛に貫かれている。利己主義は、個人主義の皮を被って訪れる。
 考えてもみよ。国が豊で平和でなければ、家族の幸せなど実現しようがない。夫婦が不仲では、家族が一つにまとまりはしない。家族の大黒柱が失業していたら、家族の生活は成り立たない。国に正義が実現されていなければ、自己の道義を護ることはできない。国を愛する事ができなければ、国の決定に心から従う事はできない。ならば、自己の正義を貫こうとしたら、必然的に、自己も、恋人も、夫婦も、家族も、地域社会も、会社も、国家も、世界・人類も一つに貫かれなければならない。自己の幸せを追求することは、夫婦愛、家族の幸せ、会社の発展、国家の繁栄を実現する事に他ならないのである。
 故に、修身・斉家・治国・平天下なのである。
 自分さえ善ければと言うのは、善ければなのである。自分が善くならない、自分だけがよくなればという事はありえないのである。自分を善くするためには、家族を善くしなければならず。家族を善くするためには、国を善くしなければならず。国を善くしようとすれば、世界を平和にしなければならないのである。

 愛国心とは、無条件の隷属、服従を意味するのではない。圧政・専制を倒すのも愛国心である。民主主義国における国家への忠誠とは、国民の福利にある。愛国心を鼓舞することがなぜ悪いのか。負け犬に過ぎない。
 愛国心を否定する事は、仁義を否定する事である。

 仁義は、志の本である。仁義は、生きる礎。人の生きる道。故に、仁義は、国の礎。国の道なのである。世界を平和にし、国を善くし、家族を幸せにして、自己実現をするためには、仁義を護らなければならないのである。

 今、日本人が忘れ去ろうとしている心。それが、仁義である。我利我利亡者となって、誇りと・名誉を顧みず。唯物論的快楽主義者になり果て、公の大義を見失い。公序良俗を忘れてしまえば、この国の未来はない。根本は、仁愛である。志である。
 日本人よ、人よ、誇りを持て。誇り高くあれ。

 人は、仁故に、戦い。仁故に、国を作る。愛するが故に戦い。愛する者の為に、国を作る。仁義なくして正義は行われない。仁義になくして、家族も国もまとまらない。仁愛がなければ寄る辺などないではないか。
 だからこそ、仁は、平和の源。仁愛こそ全てなのである。

 仁とは、普遍的な愛である。慈悲の心である。博愛である。
 仁の本性は、仁愛である。天然・自然の情である。天が与えたもうた情である。天の恵み。天道。神の愛である。
 子供が親を慕い、親が子供を慈しみ、妻が夫を愛おしみ、夫が妻を労るような自然の情である。それは、観念の所産でもなければ、他人から強要されるものでもない。
 だからこそ、仁の根源は、自己なのである。自己愛なのである。義の本源は、自己善なのである。義も礼も智も、そして、忠信孝悌も他人に強制されるものでも、社会から強要されるものでもない。自らの想い、意志の問題である。
 自己が自己として自立した時、封建的頸木から八徳は解放される。その時、東洋的徳は、民主主義的正義へと昇華していくのである。その根本は、仁である。






                    


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