夫婦愛



 以前、バリへ夫婦で旅を旅をした時、夕暮れの浜辺を八十を過ぎたと思える品のいい老婦人が、鮮やかな赤の水着で、波打ち際を歩いていた。白髪の上品な婦人は、一目で欧米人とわかった。若い女性が着るような鮮やかな赤い水着なのに、決していやらしくなく、とてもおしゃれに見え、ほほえましかったのを覚えている。その脇をご主人と思われる、老紳士が優しくエスコートしていた。その情景がとても印象的で、夫婦の愛情の深さが、端で見ているだけで理解できた。家内とああいう風に歳がとれたらいいねと話を交わした事が、今でも忘れられない。
 仕事柄、多くの商店主と旅をする。年輩の商店主さん達は、若い頃、家にも寄りつかず、ずいぶんと悪い遊びをして奥さんを泣かせたようだが、歳をとると、なぜか、長年連れ添った奥さんと旅をすることを選ぶようになる。一緒に旅する老夫婦が何とも初々しく見えるからおかしなものである。

 逆に、熟年離婚というのが流行っているそうである。子供達が成人し、巣立ち、亭主が定年を迎えると、退職金を受け取って離婚してしまうのだそうである。
 仮面夫婦というのもある。上辺は、仲の良いおしどり夫婦を装っているが、実際は、愛情などかけらもない夫婦だそうだ。タレント夫婦が、営業上の理由で形ばかりの夫婦を演じている場合を指しているらしい。こうなると夫婦関係も一つのビジネスである。

 子は鎹(かすがい)と言うけれど、本当の夫婦愛は、子供が手離れて、夫婦水入らずになった時に、はじめて問われるのかもしれない。その時までに、真実の愛を成就できない夫婦は、別れていくしかないのであろう。

 夫婦というのは、不思議なものである。親子の愛というのは、選択の余地がない。親子関係というのは、生まれながらに定まっているのである。それに対し、夫婦は、自分の相手は、自分の意志で選ぶのである。親子の絆は一世、夫婦の契りは二世といわれる所以である。本当の夫婦愛は、性的な欲望が枯れたときに姿を現すのかも知れない。
 意外と愛の実相は、夫婦愛、特に、老齢期に入った夫婦間に見られるのかも知れない。愛は欲ではない。純粋な思いである。純粋な思いは、欲が枯れた時にこそ姿を現すのかもしれない。欲望は、人の目を誤らせ、真実の愛を見失わせるようだ。

 本来の愛というのは、一時的な激情によって形成されるのではなく。長い間かけて熟成されるものではないのだろうか。
 確かに、熱病のような恋愛感情は、愛を芽生えさせはする。しかし、愛本来の力は、恋愛によって芽生えた愛情を長い時間をかけて熟成された後に発揮されるように思えてならない。風雪に耐え、試練に鍛えられて輝きを増すのではなかろうか。

 穏やかな、何とも言えぬいい味が、長年愛し合った夫婦にはあるのである。逆に、どんなに激しく愛し合ったカップルも、上辺だけの愛では長続きせず。泥沼のような愛憎劇の果てに別れていく。愛というのは、見せかけだけでは解らぬものである。

 結婚にもいろいろな形がある。子供を作らない夫婦、共稼ぎ、契約婚、ディンクス、同性の結婚もある。
 結婚は形式だから意味がない。愛さえあれば結婚なんてしなくてもいい。婚姻は、ただの制度に過ぎない。結婚は形式にすぎないとか、そうでないとかと言う議論もある。しかし、こういう議論は実がない。形式か、形式でないか、制度に過ぎないのかといった議論は、不毛である。愛さえあればといいながら、根本に愛がない。愛を問題にしていないからである。
 確かに、愛さえあれば、制度や形式なんて関係ない。同様に、制度や形式に囚われたり、否定したり、こだわる必要もないのである。

 結婚に絶対的な形、普遍的な形はない。夫婦関係にあるのは、自分にとってよりよい関係だけである。夫婦間の問題を国家や何らかの機関が介入するほど野暮な話はない。基本的に夫婦間の問題は夫婦で解決すべきである。形にこだわる必要はないが、形を否定する必要もない。婚姻の形もこれが絶対だという形は存在しない。あるとしたら、結婚というのは、一人ではできないという事だけである。必ず相手がいると言う事である。自分の考えを一方的に相手に押し付けていたら結婚は成り立たない。手前味噌、自分勝手に夫婦の問題を片付けることは許されない。夫婦がお互いの考えや生き方を認めあい、尊重しなければ成り立たない。隷属や服従は、本当の意味での夫婦間にはあり得ない。それは、夫婦ではなく、奴隷と主人の関係である。お互いを認め、許し合わなければ、結婚は続かない。喧嘩や葛藤、対立の果てにお互いが、お互いを許し合い認めあえてはじめて夫婦愛は成就する。その時、人生の意義、生きることの意味が見えてくる。結婚式は、愛が成就したから行う式典ではない。愛を創造していくための始まりの儀式なのである。家庭というのは、愛を育む揺籃、だからこそ、夫婦間の愛は、ある意味で究極的なものなのである。
 結婚は、人生における最大の修業だという所以である。恋愛は、夢想なら、結婚は現実なのである。きれい事ではない。

 愛がなくても性欲を満たす事はできる。性行為がなくても愛は成就できる。しかし、愛と性は、二律背反、一方が成り立てば、もう一方成り立たないと言う関係にあるわけではない。愛は性欲を否定しているわけでもなく、性欲は、愛を否定するわけではない。故に、愛すれば求め合うのが自然の流れである。一つ言えることは、性的関係がなくても夫婦は成立するが、愛がなければ夫婦は成立しない。性的関係が肉体的・物理的関係なのに対し、愛は、精神的関係だからである。
 だからといって性を卑しむ必要はない。性行為は、神聖な行為である。それは、生命の誕生に関わる行為だからである。性を快楽的な側面だけで語ることが間違いなのである。性は、結果的に育児という生きとし生ける者にとって、最も重要な営みに結びついていることを忘れてはならない。性行為は、快楽の追求のためだけにあるのではない。
 愛は、精神的な繋がりである。愛は、想いである。愛は、許し合うことである。愛は、寛容である。

 愛というのは、お互いを高めあうものである。奈落の底に落とすようなものではない。お互いを堕落させるようなものではない。愛は、清らかなものである。ドロドロとした情念や怨念のようなものではない。

 愛は、お互いを尊敬し、尊重していない関係には成立しない。愛は、自立した大人の関係だからである。相手の存在を認めないような所には、愛は存在しえない。一方が、一方に、一方的な服従を要求するような関係は愛ではない。隷属である。愛は、自由人同士でなければ成立しないのである。愛の根源が自己だからである。だからこそ、真実の愛が成立するためには時間が必要なのである。

 生まれも、育ちも、考え方も、生き方も、価値観さえ違う者どうしが、一つ屋根の下で暮らし。何もかも共有しなければならない。結婚は、現実である。失うことを怖れていては、愛し合うことはできない。愛は、求めるだけでは成就しない。与える事で、許すことではじめて成就する。人に見せられなと所を見せなければ夫婦関係は成立しない。裸になれなければ愛し合うことはできない。きれいな所ばかり見ていては、愛は成り立たないのである。他の誰にもみせられない。親にも言えないような所を見せ。許し合うからこそ愛は成り立つ。それが愛の力。
 ありとあらゆる障害や壁を乗り越え融和しなければ愛し合うことはできない。だから、愛は、許し、寛容である。愛こそ、真実を求め逢う。
 いい所も悪い所も、嫌いなものも好きなものも、汚い面も、きれいな面も良いも悪いも、恩讐を超え、因縁を超え、否、悪い所をこそ、嫌なところをこそ、汚いところをこそ直視し、理解するが故に、許すが故に愛し合えるのだ。
 夫婦の愛とは、恩讐の彼方にこそある。
 だからこそ恋に恋しているうちは、真実の愛を知る事はできないのである。その意味では、夫婦愛は、愛の究極の姿なのかも知れない。
 だから、形式だ、制度だにこだわっているうちは、真の夫婦愛は、見えてこないのである。






          


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