あるテレビドラマの中で中年の主人公が、長年、連れ添った女房に向かって、「俺は、外で忙しく働いているんだ。おまえは、家で楽しているんだから、何も文句は言うな。」と言う台詞があった。
「結婚をしたら、女としてなんかみれるか。」とも言う。
子供の事で相談したくても「子供の事は、おまえに任せたのだから、いちいち相談しなくても良いよ。」というばかり、話し相手にもならない。
女房は、女房で「亭主も子供達も外で勝手なことをしている。それなら、私も好き勝手してやる。」そう思いこんでいる。「誰も、私のことを解ってくれないし、振り向いてもくれない。」「子育てが終わってみたら、自分の居場所がない。」これまでの私は何だったんだと思い悩み。「女として誰も見てくれない。」とこぼす。夫や子供達の為に、自分の人生は犠牲になったんだと考え出す。
子供は、子供で「私は、望んで生まれてきたわけではない。親が、良い思いをして勝手に産んだんだ。」そう思っている。結婚してしまえば、もう、親の事など、どうでもよくなって。勝手に好きな人つくって自由するのが、家を出ていくのが、当然だといわんばかりである。
そして、話の筋は、主人公夫婦は、離婚し、新しい相手をそれぞれ見つけて、第二の人生を歩きだし。子供達は、子供達で、思い思い自分の好きな生き方をしていくという事になりそうである。この様な生き方を自立だとマスコミは言う。
違う。違う。これは、家族がバラバラになっているにすぎない。元々、愛がなかったにすぎない。
しかし、マスコミは、家族がバラバラになるのを容認する。成り行きに任せればいい。それが、自然のモラルだという。そして、愛とは、自然だという。自分達の言っている事が、いかに理不尽で、不自然だと言う事を棚に上げて、それが真実の愛だという。自由だという。
会社の犠牲になるな、家族を大切にという連中に限って、家族制度は、封建的だと否定する。個人の自立といって家族をバラバラにして、崩壊させる。
現代の男の無理解さ、身勝手さを、それが、男の性(さが)だという。自由な生き方だと推奨する。そして、日本の男は、昔からそうだったと決めつけている。だから、女も女の性(さが)に従えばいいと言う。
本当にそうであろうか。少なくとも、昔の男は、女に対して優しかった。夫は妻を労りつ、妻は、夫を慕いつつであった。「勝手にしろ」ではなく。「おまえにばかり苦労をかけてすまないな。」だった。思いやりがあった。
母親には、常に居所があった。お袋の座というものは、不動であったはずである。確かに、その座を巡って嫁姑の確執はあったかも知れない。しかし、少なくとも、女が、家族にひたすら隷属したというのは、語弊がある。歌にもあるように、家族にとって、母親は、太陽だった。昔の夫婦には、愛がなかったなんて、言えはしない。妻や母親に対する思いやりや尊敬心をなくしたのは、現代人であって、日本人の伝統ではない。自分達の罪を先祖の責任にして、自分達の行為を正当化するのは、現代日本人の悪しき性癖である。
なぜ、育児や家事を賞賛する事が、男女差別になるのか。なぜ、母親の愛を大切にする事が、女性蔑視となるのか。反対に、家庭を否定する事が、女性の権利を認めることになるのか。私には、解らない。
男女同権が、なぜ、男女同等になってしまったのか、解らない。男と女は、違う。少なくとも、肉体的には、差がある。この様で、否定していまうのは、どうかしている。トイレも、着替える場所も、同じところでしろというのは、かつては、差別の一つだった。
そういえば、「失楽園」という小説も一世を風靡し、映画化、テレビドラマ化された事もあったけ。人妻が不幸だからといって肉体関係を持ち、愛欲の果てに身を滅ぼす事が、愛の究極の姿だとしら、その愛は、呪われている。愛は、男と女の間だけにあるわけではない。親と子、友、兄弟、自分と関わる全ての人との間にある。国や社会、動植物にも向けられる。愛とエゴとは、対極にある。
不道徳な事、醜い事を描いて、それを美だという人間がいる。学校で、芸術を美術と教えた事による弊害である。芸術は、表現である。醜い物も表現をする。ゴヤは、戦争の悲惨さを描いた。しかし、それは、美しく描いたわけではない。悲惨に描いたのだ。醜い物は、醜く描く。それが表現である。醜い物を描きながら、美しく感じさせたら、それは、表現ではない。錯誤である。芸術を美術とした事で錯誤が生じた。本来、醜い物は、醜く描くのである。
自分と愛する者、全てを犠牲にしてまで、そして、死をもって添い遂げようとする愛は、暴虐である。それを究極の愛というのは、間違いである。お互いを傷つけあい、破滅に導くような愛などありはしない。それは、愛などという代物ではなく。ただ、単なる欲望と快楽に過ぎない。
愛は、人を生かす力である。愛は、許し合うことである。人を死へ至らしめ、許し合うことのできない淵へ追いやるものを、どうすれば、愛と言えるのか。
人を愛することができない者が、愛を求めても虚しいばかりか、破滅するだけだ。おのが、性的欲望のために、相手の人生を滅茶苦茶にして何が愛か。愛は、人を生かす力。人を破滅に導く力ではない。欲望に忠実になることを、愛とは、いわない。愛する者のために自制する、それが愛である。愛する者の為に、自分の身を犠牲にすることすら厭わない。それが、愛である。相手から何も求めない、無償の愛こそ究極の愛である。
家族の根本は、愛である。愛なくして、家族は成り立たない。子供がいても、いなくても、それが、家族だとは、言えない。同じ屋根の下に暮らしているから、家族なのだとも言えない。籍を入れたから家族なのだとも言えない。愛がなければ家族とは言えないのである。
人は、本来、愚直で不器用なものだ。だから、愛も愚直で不器用なのだ。相手によって愛し方を変えるなんて器用な真似はできやしない。
全ての本源は、愛なのである。愛がないのに、愛を描こうとするのは、最初から難がある。虚構である。家族や男と女の間に愛がなければ、そこにあるのは、醜悪な、欲望と快楽だけである。ならば、最初から愛などといわずに、欲望と快楽を描いたと言えば良いのである。
親心の解らない大人が増えている。親心が持てない親が増えていることを意味する。親とは、心配する者である。つまり、心配しない、心配できない人間が増えているのである。心配するとは、心配り(こころくばり)する事である。つまり、心配り(こころくばり)・配慮ができないのである。
子供は、一方的に親に依存している。乳幼児の時は、特にそうだ。親は、子供がなくても生きていける。極端な事を言えば、困らない。しかし、子供は、親が居なければ生き生けない。困る。だから、親のない子は、親代わりを捜さなければならない。
ならば、親にとって親子の絆とは何か。それは、愛である。子に対する無償の愛である。子には、利害がある。生まれたばかりの時は、自分では何もできない。食べることも、歩くことも、話すことも、それこそ、排便することだって一人ではできない。つまり、親に対し子は、弱者であり、ハンディがあり、生まれた時から負い目があるのである。子は、親が自分の世話をするのは、当然だと思っている。しかし、それは、親と子という関係があって成り立つのであり、親子の関係がない、あかの他人には、要求できないことなのである。ならば、なぜ、親は、この世話を見なければならないのか。社会的責務・法的義務だけでは説明が付かない。道義的責任?やはり、愛がなければ説明が付かない。社会的責務や法的義務は、道義的責任を追認したものにすぎず。親子の道義的責任の根源は、愛情である。
人に迷惑をかけなければ、何をしても良い。それが、民主主義だと似非(えせ)インテリは言う。冗談ではない。親に迷惑をかけない子は居ない。この存在そのものが迷惑の根源なのである。ならば、迷惑をかけるなとは言わない。感謝ぐらいしろと言うことである。親が求めているのは、それ以上でもそれ以下でもない。迷惑をかけなければと言うから、いつ俺が親に迷惑をかけたと開き直られる。おまえが勝手に産んだのではないかと言い出す始末だ。しかし、親を悪し様に言う事は、自己否定である。自虐である。結局、自分を愛せなくなる。迷惑をかけることが悪いのではない。迷惑をかけていることを自覚していないのが悪いのだ。迷惑をかけていると思うから感謝する。思いやる気持ちが生まれる。それが親心に通じるのである。親心は、愛である。慈愛である。その親心が失われるから悲劇が起こる。
親の心というのは、誰彼に強要されるものではない。それは自然の情である。自分に対する愛情である。自分を愛せない者は、我が子をも愛せない。我が子を愛せるようになれば、自分をも愛せる。親への愛は、神への愛に通じる。親は、子を必要とはしていない。親を必要としているのは、子である。子にあるのは、親への念である。親にあるのは、愛である。神は人間を必要とはしていない。神を必要としているのは、人間である。人間にあるのは、神への祈りである。神にあるのは、愛である。神への祈りは、神への感謝である。自分をこの世に生み出し、存在させてくれた者への感謝の念である。それは、生まれた事への喜びである。
親を恨むことは、自分を呪うことである。幸せになりたければ、とりあえず、親に感謝しなさい。少なくとも、自分の人生を呪わずに済むようになれる。親へ感謝できない者は、自らの運命を呪う者である。愛を知らぬ者である。親の心は、神の心である。その本質は愛である。
愛は、愛によって育まれる。親心の持てない者は、親の愛に恵まれなかった者である。つまり、親の愛に飢えている者である。親の愛に飢えて、自分の愛を子供に与えることのできない者である。それは、悪循環をもたらす。愛に飢えた者が増えれば、人は、愛に貪欲になる。人が愛に貪欲になり、愛を求めるだけで、愛を与えなければ、愛は、枯渇する。それだけ世の中から愛が失われていくのである。そして、また、愛に飢えた者を生み出すのである。愛が欲しければ、先ず愛しなさい。愛は、求めるばかりでは得られないのである。
そして、人が最初に出逢う愛が、親の愛である。親は、生みの親とは限らない。育ての親もいるのである。全ては、愛に始まるのである。親に愛されて、人は愛を知る。ならば、自分を愛してくれる者こそ真の親である。だから、親心が大切なのである。生みの親、育ての親、名付けの親、愛に満ちた世界には、親は何処でもいる。それが愛の世界。神の国である。
鬼の目にも涙という。鬼でも子を思う時、涙を流す。それが、親心。親の愛である。
全ては、愛に始まる。
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