他人に、迷惑をかけなければ、何をしても良い。それが民主主義であり、自由主義だと私は、教わった。しかし、これ程、欺瞞に満ちた教えはない。
親に迷惑をかけなずに生きられる子はいない。生まれたばかりの赤ん坊は、一人では生きていけないのである。誰かの世話にならなければ、生きられない。そう言う宿命を背負って人間は生まれてくるのである。つまり、人間とは、本来、迷惑な存在なのである。
たどしたら、迷惑なんかかけないなんて、水臭いことが、なぜ言えるのだろうか。そんな、恩知らずなことが、なぜ、言えるのだろうな。
ところが、他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい。自由な世の中なんだからと、我々は、学校で教え込まれたのである。それが民主主義なのだとも教えられた。しかし、迷惑は、自由とも、民主主義とも、無縁のことだ。
人は、他人に迷惑をかけなければ生きられない存在である。迷惑をかけざるを得ないとしたら、迷惑をかけなければ何をしても良いという言い分が、いかに、欺瞞に満ちているか、わかるであろう。なんていかがわしい教えなのだ。考えてみると、なんと無責任な、言い分なんだろう。
迷惑をかけなければと言う以上、迷惑をかけずに生きられるという前提が成り立たなければならないのだ。人に迷惑をかけなければと言うのは、最初から実現不可能なことを前提としているのである。実現不可能なことを前提としている場合、後段は意味をなさない。最初から成立しないからである。私が自力で空を飛べたら、あなたとの約束を守ろうというようなものである。最初から、お前との約束なんて守る気はないと言った方がまだ気が利いている。正直である。
人に迷惑をかけなければ何をしても良いなんて教える者は、自分は、誰にも迷惑をかけずに生きていけると、生きてきたと思っているのであろうか。
現実には、人に迷惑をかけずに生きられる者はいない。特に、親に迷惑をかけずに生きられる者などいないのである。
迷惑をかけずに生きられないのならば、何もやっても良いというのは、嘘である。迷惑をかけるのだから、何もするなと言った方が正しい。しかし、それでは身も蓋もない。だとしたら、迷惑をかけることを認める以外にない。
親に迷惑をかけない子はいない。愛する人に迷惑をかけない者はいない。もし、迷惑をかけたくないなんて言うのならば、それこそ、愛していないと白状したようなものだ。
子供を育てるために、母親がどれ程大変な思いをしているのか。それを迷惑なんかかけていないなんて言われたら、身も蓋もない。頼みもしない癖に産んだなんて言われたら哀しくなる。
生まれたばかりの子供が乳をせがむために、夜も眠れず。自分が汚れるのも厭わず、糞尿の世話をし。身を削り。なりふりかまわず。行きたいところところにもいけず。綺麗に装うこともできず。自分の食べたい物を後回しにして、子供に与え。子が家をあければ、帰ってくるまで心配をする。子供が、道に迷えば、気が狂ったように探し回る。
それでも、母親は、子供が迷惑だなんて言わない。母親にしてみれば、なぜ、お前は迷惑だと言えるのだろう。子供の存在は生き甲斐なのだ。子供の存在が迷惑だなんて考えもしなかった。だから、迷惑をかけなければと言う時、自分が子供にかけられた迷惑を度外視してしまうのだ。
それに、他人に向かって迷惑だなんて、簡単に言えない。自分が、他の人に迷惑をかけていると自覚しているものは、なかなか言えるものではない。お互い様、お陰様と声をかけるくらいである。
迷惑を承知で子を育てるのは、愛するからこそである。それを片時も忘れてはならない。忘れさせてはならない。そうすれば、少なくとも、愛する人、母を悲しませたいとは思わないだろう。子は、自制するであろう。だから、母の愛は偉大なのである。何よりも、悪の道から救うのは、母の愛の力である。
それなのに、僕は親に迷惑をかけたくないと、家から出っていって、家に寄りつきもしなくなる。なぜ、親に迷惑をかけるのに、遠慮をする必要があるのか。
迷惑というのは、人間関係そのもの。迷惑というのを言い換えれば、お世話である。又、面倒でもある。
最近、俺は、他人の世話にならずに生きていく。生きてきたという人が増えている。これも、戦後教育の成果。人間は、人に迷惑をかけずには生きられない。誰にも迷惑も、世話もかけていないと言う者がいたら、それは気が付いていないだけだ。自分では気が付かないところで、いろいろの面倒、世話を受けている。
それに気が付けば、お陰様で、お互い様と感謝するようになる。大体、感謝なんて、強要できるものではない。それでも、自分一人で生きていけないときが付けば、自然に、ありがとうと感謝するようになる。済みませんと謝る必要はない。なぜならば、迷惑も、世話も、面倒も人間関係そのものだからである。迷惑をかけるな、迷惑をかけるなと言われたら、人間は生きていけない。
迷惑をかければ、かけるほど、愛情は深まっていくのである。
今の多くの親達は、自分達は、苦労してきたから、その分、子供達には、辛い思いはさせたくない。厭なことはさせたくない。無用な心配はさせたくないと、買いたいものも我慢して、子供に好きなものを与え。自分の楽しみを後回しにして、子供に楽しみを与えた。子供の喜ぶ顔を生き甲斐にして、困難な状況も克服してきたのである。
それなのに、子供は、俺は、親の世話になっていないなんて平気で言う。迷惑なんてかけていないと本気で思い込んでいる。だから勝手な生き方ができる。
子供が、迷惑さえかけなければなんて、なぜ、言えるのか。子供は、親にとって迷惑な存在なのである。
大体、迷惑であるか、否かは、迷惑をかけられた側の問題であり、迷惑なんだよと言われれば、どうしようもないことなのだ。お前の存在が迷惑なんだと言われたら、どうすればいいのか。死ねと言うのか。
迷惑だなんて、なんて愛のない言いぐさか。なんて、冷たい言い方なのだろう。
それに、迷惑をかけなければと言われても、主観の問題だ。俺は、親に迷惑なんてかけていないと言い張られたら、説得のしようがなくなる。そして、誰にも迷惑をかけていないんだから、何をやったていいだろうになるのが関の山なのである。
そして、迷惑をかけて覚えがないのだから、誰にも、感謝なんてしなくなる。お陰様で、お互い様なんて思いもつかない。そんなことは関係ないである。
結局、迷惑をかけて申し訳ないと世間を狭くし、身を縮めて生きていくか。俺は誰にも迷惑をかけていないんだから、何やったって良いだろうと好き放題に生きていくことになる。いずれにしても、両極端の生き方しか選択肢がなくなる。申し訳ないと思う人間は、ひきこもり。迷惑なんてかけていないと言う者は、我が儘、自儘、勝手気儘に生きていくだろう。
愛される事は迷惑なのだろうか。確かに迷惑かもしれない。余計なお世話かもしれない。だけど、それが愛なのである。だから、お互いに、お互いを思いやるようになるのである。
迷惑をかけないなんて言うべきではない。迷惑はかけても良い。でも自覚して欲しい。その上で、ありがとうと言おう。相手に迷惑をかけていると思うからこそ、感謝する気も起こるのである。お互い様である。
人を好きになると言うことは、それ自体、迷惑なこと。愛なんて、迷惑な話さ。余計なこと。それが愛さ。わざわざ鬱陶しい思いをして。他人に迷惑をかけて。好きにならなければ、こんな煩わしいことをしなくてすむのに。好きだからこそ、耐えられるのさ。
そして、その時、子を産みみ育てる覚悟つく。子供に迷惑をかけられ、厭なことや汚れ仕事も厭わず。いやいや、愛する人や子供のために苦労することが、迷惑をかけられることが喜びとなり、生き甲斐になる。愛する事、愛される事とは、迷惑な話しさ。
でも、お互い様じゃあないか。お陰様じゃあないか。それが愛し合うことだろ。自分だけが迷惑をかけているわけではない。相手だって迷惑をかけているんだ。どんなに愛し合っていても、一人でいたくなることぐらいある。一人にしてくれと言ったら、愛していないという事になる。愛とはそんな軽薄なものではないでしょ。お互いに我慢しなければならないこともある。我慢することは愛がないという事。違うでしょ。我慢ができなくなったらお終い。愛がない証拠。お互いを許し合い、認め合い、助け合い、分かち合う事。それが愛。
最近、離婚する人が増えている。増えているどころか、結婚そのものが成り立たなくなっている。つまりは、愛する事の意味が空疎となっている。結婚生活そのものが虚しいという。結婚は、かつて墓場だと言った者がいる。つまりは、家庭そのものが葬り去られようとしている。愛し合い、子供を育て、家庭を持つことは、無意味だという。国そのものが、教育が、夫婦愛というものを否定している。それが男女平等だという。
違う。真の男女平等とは、男と女が、お互いの違いを認め、許し合った上、お互いを尊重し、いたわり合う関係によって成り立つ。何でもかんでも同等の立場に立つことを意味しているのではない。
専業主婦を頭から否定し、侮蔑し、外で活躍する者だけが、認められる。伴侶を愛し、子を育てることは、愚か者の仕事なのか。そこに愛はあるのか。思いやりがあるというのか。ただ、傷つけあっているだけではないか。それでは別れていくしかないではないか。
愛し合うのではなく。てんでんバラバラに自分勝手な生き方をし、同居人でしかない関係。それを夫婦とは言わない。
なぜ、離婚をするのだろう。
女性が、離婚する時、「私は、伴侶や子供のために、自分を犠牲にしてきたとか。我慢してきた。」という理由をあげる人がいる。
「女でいたい。」とも言う。ならば、女とは何か。女の原点は、母ではないのか。
「なぜ、今まで、誰のために生きてきたのか。」という問い掛けに、なぜ、「愛する人の為に」と応えることができないのだろう。それでいいではないか。愛する人の為に生きられるというのはなんて素敵なことなのであろう。逆に言えば、人生を、運命を共にできる人がいない、愛する人がいない人性なんて、なんて侘びしい人生なのか。どんなに成功しても、どんなに金もつになっても、共に喜びを分かち合う人がいないなんて寂しい限りではないか。
そうではない。迷惑をかけるのが苦痛になるから別れるのである。迷惑をかけられないと言う事は、愛せないという事なのである。
自分を大切にするという事は、愛する者を大切にすること。犠牲にすることとは違う。ただ、迷惑はかけるかもしれないが。
結婚なんて、鬱陶しくて、面倒臭くて、煩わしくて、迷惑なことなのである。結婚をすれば、何かを買うのでも伴侶と相談する必要がある。自分が欲しい物を欲しいときに買いたければ、結婚なんてしなければならない。子供のことで悩みたくなければ、結婚はしないことである。亭主が浮気しているのではと疑心暗鬼に陥って夜も寝られなくなるのは結婚しているからである。それが厭ならば、結婚なんてしないことである。結婚というのは、面倒臭くて、煩わしくて、鬱陶しいことである。だから愛情が必要なのである。つまり、愛情というのは、面倒臭い、迷惑な事なのである。だから、愛情がなくなれば、結婚なんて、鬱陶しくて、面倒で、迷惑なだけである。だったら別れるしかない。迷惑だなんて思うようになったらお終いである。ただ、迷惑をかけたくないと言うのならば、最初から愛情なんて期待する必要がない。愛情なんてないのである。だから、相手に感謝もしない。思いやりもない。迷惑をかけないことが思いやりだなんて、自分勝手な思い込みに過ぎないのである。それは、とても愛などと呼べる代物ではない。
愛する者のために、生きることは愚かなことなのか。愛する者のために、我が身を犠牲にする生き方は、無意味な生き方なのか。愛する者のために、自分を捧げることは最高の生き方ではないのか。それは、男も女もである。外で働くのも内で働くのも同じ事である。どちらが尊いというわけではない。ただ、内で働く者は、立場が弱い。だからこそ、社会的に守らなければならないのである。
国民国家の国民は、なかなか、戦争に赴かないと言う。しかし、一度、武器を取ると最後の一兵まで戦うという。なぜならは、彼等は、愛する家族のために戦うからだという。
何が不倫だ。何が失楽園だ。何が、愛の遍歴だ。愛する事もできない者が、愛を求めたところで虚しいだけだ。
一夜の快楽のために、愛する者を捨てることができるのか。なぜ、愛する者のためにと言う一言が言えないのだろう。なぜ、愛する者のために我慢ができないのだろう。なぜ、愛する者のために自制できないのだろう。
なぜ、肝心なところで愛という言葉が失せてしまうのだろう。最初から愛がないのか。
愛してもいないのに、愛しているというのか。
相手の嫌がることを相手に押し付けておいて、解ってくれないと言うのは、迷惑をかけることとは違う。それこそ、エゴである。なぜ、愛する者が嫌がることを平気でできるのであろう。最初から思いやりがない。思いやりがないところに愛はない。だから、愛は禁欲的なものである。身勝手な愛を愛とは言わない。なぜならば、愛には、必ず相手があるのである。よしんばそれが自分であっても・・・。
愛とは、最も嘘を嫌うのに、愛しているという言葉に、いかに嘘が多いか。現代人は、呪縛にかかっている。自分で自分を呪っている。だから愛が信じられなくなり、そして、別れていく。
人の世話になるのが死ぬほど厭だから自殺する。馬鹿げている。世話をするのが喜びであることすらあるのにである。愛とは、献身なのである。それも決して相手のためにだけではなく。自分の為でもあるのである。
迷惑をかけると言った時に厭だと拒否されると傷つくから言えない。良いじゃないですか、その時は、その時ですよ。迷惑をかけるのも、世話になるのも愛する事なのです。そのかわり、一言でも良い。ありがとう。苦労をかけるね。愛してると言おう。
迷惑をかけると思えば話し合う事です。迷惑をかけないと思うから話し合わない。干渉してはいけないのではなく、干渉し合うことです。相手を尊重するというのは、相手に干渉することでもある。
大きなお世話が大切なのです。だからといってほっといてはない。他人は他人はない。話せば解るもない。話しても解らない。だから討議し採決をとるのです。これは全て個人主義です。つまり、個人主義というのは、お節介な思想です。アメリカを見れば解る。他人の国に平気でズカズカと入り込んでくる。専制主義国は別です。他人のことなどどうでも良い。だから、情報の開示もいらないし、人の不幸にあまり関わりたくない。それが専制主義です。個人主義ではない。となると、今の日本はどっち。
「自分さえよければ、他人なんてどうでも良い」と、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」というのは対になっている。
だから、「自分さえよければ・・・。」と言うと、自分勝手だ、少しは、人の迷惑を考えなさいとくる。
たしかに、「自分さえよければ・・・。」とはいったが、「他人はどうなっても良い」とは言っていないのにである。それこそ相手が勝手に決め付けている。自分に良いという事は、当然、愛する者が良い事に決まっている。自分と他人との人間関係を考えれば、他人なんてどうなってもいいなんて考えるはずがない。ところが、そう言うフレーズで今の日本人は刷り込まれている。
思いもしないことを勝手決め付けて、一方的に話をする。今の日本人の悪い所である。そこに愛はない。愛というのは、常に相手を意識する。思いやる心である。愛がないから、いくら話しても真意が伝わらない。余計なお世話である。会話が成り立たない。
だから会話ができなくなっている。会話をするのが怖くなる。
迷惑、迷惑と言われ。迷惑をかけることは悪いことだと言われるから、人間関係が成り立たなくなり、会話が途絶える。
メールも人に迷惑をかけたくないからするみたいな。だから、どんどん会話がなくなり、メールが又迷惑なものになる。これではイタチごっこである。
迷惑がいけないといわれれば、遠慮が生じる。でも遠慮があったら、愛せはしない。愛なんて、無遠慮なもの。だから愛は、思いやりなんです。思いやる心、ゆとりのである。思いやる気持ち、がなくなれば、いたわる気持ちが感じられなくなれば、急に愛は醒めてしまう。
第一、他人に迷惑はかけるなと言っているが、身内に迷惑をかけるななんて言っていない。確かに、見ず知らずの人間に迷惑をかけるのはよくないことかもしれない。それは、そこに人間関係がまだ成立していないか、未熟だからである。身内にすら迷惑をかけられないとしたら、金で解決する以外なくなる。だから、金・金・金の世界になる。
実際のところ、迷惑をかけられるというのは、特別な関係なんですよ。だから、迷惑をかけられるというのは、嬉しいことでもある。ものを頼みに行くと面倒臭そうに、迷惑そうにしながら、嬉しそうにしている人は沢山いる。昔は、世話焼きさんて沢山いましたけれどね。世話をやくって要するに迷惑な仕事を引き受けるって事ですからね。人に迷惑をかけられるというのは結構楽しいんですよ。でも、世話焼きさんって結構迷惑なんですよね。だからお互い様って言うのだけれど・・・。迷惑だっていったんですよね。そうしたら、世話焼きさんがいなくなってしまった。
確かに、愛されるというのは、迷惑なことかもしれない。愛されるという事は、ある意味で鬱陶しくて、煩わしいこと。まてまて、それが人間関係じゃないのだろうか。その鬱陶しくて、煩わしいことが厭だったら、人なんて愛せやしない。
愛は、幻想ではなく、現実なのである。目の前にいる人を愛せず、何を愛せるというのだろう。嫌いになったからと言うのではなくて、結局、その人に煩わされるのが厭だから別れていくのかもしれない。もう、世話をするのが、面倒臭くて、その人のために、大切な時間や人間関係を犠牲にするのが厭になってしまうから、もう勘弁してと、別れていくのではないのか。でも愛ってその鬱陶しくて、煩わしいことが喜びだから成り立っているんですよね。楽したいと思えば、愛なんて得られない。
愛されるという事は、迷惑かもしれないけれど、迷惑だから、愛せるんですよね。それが鬱陶しくなった時、別れざるをえなくなる。愛は、究極的なエゴにも見える。しかし、それはエゴではない。なぜならば、その根本が自己だからである。
我々は、迷惑をかけたくなくても、迷惑をかけなければ生きられない動物なのである。それが大前提である。その迷惑も、最も愛する人に一番かけなければならない。愛する人、母や父、兄弟や子供に迷惑をかけ続けてしか生きられない。もし、迷惑をかけたくないとしたら、どこか、世間の片隅でひっそりと生きていくしかない。しかし、それすらも世間様には迷惑なのかもしれない。ならばもういっそ死んでしまうしかない。しかし、勝手に死ねば、又、人に迷惑をかける。人に迷惑をかけてはいけないなんて、なんて残酷な教えなのであろう。生きることも死ぬこともままならなくなる。すみません。すみませんと申し訳なく生きていくしかあるまい。そう言えば、何でもかんでもあやまりながら生きている人が増えてきた。止めましょう。迷惑なんてかけなさいよ。その代わり、感謝しよう。申し訳ないというかわりに、ありがとうと言おう。申し訳ない、申し訳ないとあやまりながら生きるのは止めて、ありがとう、ありがとうと感謝しながら生きていこう。特に、愛する人々に・・・。
ならばなぜ、愛し合いながら、別れ別れになる必要があるの・・・。愛を犠牲にしてまで快楽や欲望を追い求める必要があるの。それを夢というならば、なんて虚しい夢なのか。愛のない夢なんて幻(まぼろし)に過ぎない。
最近は、母親にも定年があるようだ。子供が学業を終え、社会に巣立ってしまうと、抜け殻のようになってしまう。しかし、親子に定年なんかあるものか。結局、いつまでも親子はお互いに迷惑をかけ、世話をやき続けるものだ。
一蓮托生であって同床異夢ではない。苦楽を伴にすることであって、干渉し合わないことではない。共感、共鳴、協力であって葛藤や対立ではない。大切なのは、助け合うことである。喜びを分かち合う人がいるから、生き甲斐になるのであってどんなに美味しい物を食べても分かち合う人がいなければ拙いし、やりたいことをしても分かち合う人がいなければ本当の喜びは得られない。それが愛である。粗末な物で、愛し合う人がいれば、ご馳走である。
自分を大切にするという事と、家族を犠牲にするという事は同じ意味ではない。むしろ逆だ。自分を大切にするという事は、家族を大切にするという事である。
自分を大切にしたい。自分のやりたいことをやりたい。そのことで皆に迷惑をかけるかもしれない。でも、協力して。だから、協力してと助け合うのが家族だ。どんなに、自分がやりたいことをしても誰も、喜んでくれない。助けてくれない。理解してくれない、もっと言えば、迷惑をかけられないとしたら、こんなに哀しい事ってないじゃあないか。それって、決定的に家族の絆を断ちきってしまう。
だから、勘違いなんだと思いう。自分を大切にするからではなくて、皆に迷惑をかけるのが厭だから、家族を犠牲にしているだけなんだ。
なぜ、愛していると言えないのか。
なぜ、愛していると言えないのに、愛を理由に別れていくのか。
そこに現代の病がある。
愛していると、別れる前に、もう一度、言ってみようよ。
そして、ありがとうって。