人生意気に感じるという言葉が死語になりつつある。それは、現代という社会が、共感関係型社会から利害関係型社会へ変質しつつあることを意味する。
つまり、人間関係の根本にあるのが、共鳴共感から利害得失に変質しつつあるのである。愛と言いながら、実は打算、計算でしかない。愛と肉欲の区別もつかない社会になりつつあるのである。
我々は、学校で、自分の考え、意見を持ちなさいと教えられた。自分の意見を持つことが、個人主義だと・・・。それは良い。問題は、自分の意見とは何かである。自分の考えを持つと言う事は、人と違う考えを持つ事だと教えられたことである。人と違う意見を持つことが独創性なのだとも言われた。他人と同じ事をやっていても駄目とも・・・。他の人と同じ考えを持つべきではない。それが自分の考えを持つことだと教えられた。これでは、共鳴や共感が入り込む余地がない。
つまり、相手を他人を受け容れる素地がないのである。相手の夢や考え方に共鳴し、共感することから人間関係は始まる。その端緒が、相手と違う意見、違う考えに基づけと言うのでは、一致点が見いだせなくなるのである。
自分の意見を持つと言う事は、他人の意見に背き、反対し、逆らい、離反する事になる。奇を衒(てら)い。人と違った目立つことをする事が独創的なのである。事実、その様に、我々は、育ってしまった。今の風潮は、叛逆こそ、無軌道こそ美徳であり、従順で素直なのは悪徳なのである。
貞節や忠誠は、他から強要することができない。忠という言葉は、本来が誠を尽くすことである。貞節や忠誠は、愛情表現の極致であり、信仰に通じる。
そして最も大切な徳目の一つである。
愛の真実であり、誠から生じる激情である。故に、貞節や忠誠は、自分以外の人間には求められない感情なのである。その点を現代人は、誤解している。そして、貞節や忠誠を自分以外のものに求め、あるいは、強要することによって貞節心や忠誠心の真意を失わせているのである。
忠誠や貞節の根本にあるのは、共鳴共感である。共鳴共感する自己である。そして、その共鳴共感が自己愛と他者愛を両立させるのである。共鳴共感のないところに、愛は成立しない。この共鳴共感を否定し、それに変わって肉欲を据えたことに現代人の不実がある。
ところが、忠誠や貞操を外から強要しようとする圧力が近代になって現れた。貞操や忠誠心が封建的主従関係や戦前の全体主義的関係の枠組みの中で捉えらる事によって、戦前は、国家権力によって統制のための道具とされ。又、戦後は、反体制主義者によって、国家に対する叛逆の口実として歪曲されてしまったのである。
忠誠心というのは、本来、新しい概念なのである。それは、近代国家と個人主義が成立する事によってはじめて成立した思想である。
国家という概念は、国民国家の成立によってはじめて形成された概念である。国家概念は、国民という概念と表裏一体の関係にある。
水は、方円に従う。しかし、水の本性に変わりはない。人の上に立つ者、人と人とを繋ぐ者、例えば、指導者や管理者は、隙間を埋めることが仕事となる。人と人との隙間、仕事と仕事の隙間、その隙間を埋めることが重要な仕事となる。
丸いところで四角く頑張れば角が立つ。四角いところで丸くなろうとすれば、納まりが悪い。どちらにしても隙間は埋まらないのである。
水は、四角いところに行けば、四角くなり。丸いところでは丸くなる。しかし、水、本来の性質は変わらない。高きから、低きに流れ。表面を平らかにし、内を均質に保つ。
価値観というものは、相対的なものである。状況や条件、環境、時代によって変化する。価値観を絶対的なものとしてしまったら、人間は環境や状況に適合できなくなる。しかし、価値観が相対的だからと言って絶対的な者を否定してしまうと価値観そのものがなくなる。概念としての価値観を相対的であるが、その根本にあるものは、絶対的な者でなければならない。つまり、相対と絶対というのは、相反する概念ではなく、補完的な概念なのである。
我々は、科学万能主義の世界に生きている。つまりは、唯物主義的な世界である。そして、科学は、万能であり、全知全能であるように思い込んでいる。しかし、科学の大前提は、神の領域を科学は、侵さないという点にある。科学は、神に代わりえないという事が科学の大前提であったはずなのだ。だから、科学は、相対的であり得たのである。つまり、絶対的な存在へのアプローチを断念したことにより、相対的な考えに徹する事ができたのである。
死というものを現実と捉えるのか。それは、直感である。諸行無常と思うのも直感である。その上で、死にまつわるどの様な価値観を持つべきか。その価値観は、相対的なのである。人は死ぬ。ならば人を殺す事はいかなる時も罪なのか。国が人を殺すことも罪なのか。ならば、何をもって人を裁くのか。それは、絶対認識の上に成り立つ、相対的な価値判断なのである。
人間の一生は、不確かなものである。絶対確実と言えるものはないと言える。相対的なのである。絶対確実な者と言えるものがあるとしたら、それは、自分の節操である。だから、貞節であり、忠誠なのである。揺るがぬ貞節と忠誠なのである。それがあってこそ人の価値観は、確固としたものになりうる。
忠とは、いつわりのない心である。まごころ。まことである。忠誠とは、誠を尽くすことである。ただ、盲目的に従う事を意味するのではない。操とは、志を守ることである。貞節とは、信念を固く護ることである。つまり、自分の想いに忠実であることである。肉体的純潔を守れと言う事ではない。自分がこうと信じたら心を動かさないず、守り抜くことである。
忠誠も貞節も自己を本源とした感情なのである。要は、己(おのれ)の心である。
戦後、戦争で逝った人達を平然と犬死にのように侮辱する者がいる。愚かな者達であり、戦争で死に者は、無駄死になのだ。恥も外聞もかなぐり捨て、厚顔無恥に生き残った者の方がましだというようにである。死ぬ者貧乏である。だから、戦争は、馬鹿げているというのである。そう言う多くの者は、戦後の繁栄を享受している者に多い。
人はいつか死ぬ。死という現実をいかに思うかである。死にいく者、生き残る者、それぞれに、それぞれの思い、信じるところがある。それをただ、結果だけで判断してもその底にある本質は見えやしない。
死によって大願成就しようとしている者に対して生に執着している者の合理的理屈など通用はしない。愛する者を守るために言った英霊達を侮辱することは何人も許されない。
愛を信じるか。そこに忠誠があり、そこに貞節がある。愛する者もないのに、忠誠も、貞節もありはしない。惚れたから忠義を尽くすのであり、愛するから貞節になれるのである。
愛は天然の情である。理屈によって生じる観念ではない。愛するが、故に、尽くし、守るものである。だからこそ、忠誠も貞節も他人が強要できるものではないのである。忠誠も貞節も自分を尽くす事なのである。