生病老死。お釈迦様は、東門より出て、老を知る。南門より出て、病を知る。西門より出て、死を知る。そして、生きる為に、北門より出て修業の道にはいるのである。孝とは、人の一生に深く関わっている。生きていく上での苦の本質は、お釈迦様が生きていた時代と少しも変わりない。この苦の克服こそが孝心なのである。

 人は、生まれた時、病に倒れた時、歳をとり力が衰えた時、死ぬ時、他人の世話にならなければならない。その時、人間としての尊厳を護れるか、名誉を守れるかが重要なのである。

 人は、一人では生きていけない。しかし、往々にして自分の力が盛んで、一人で生きていけると思い込んでいる時、自分の力で自分の身の回りの世話ができる時、人は、他人の力や世話など必要としていないと思い上がっている。
 一人の力で生きていけないと悟った時は、既に遅し。一人の力で生きていけなくなっているのである。
 人に面倒をかけなければ生きていけなくなった時、人の世話にならなければならなくなって時、最も辛いのは、厄介者扱いされることである。自分が不必要な人間だと思い込むことである。人間にとって自分が無視されることが一番辛い。力がある時は、自分の力で人を振り替えさせることができる。しかし、歳をとり、隠居・引退をし、世間仕事から遠ざかると忘れ去られていくのである。
 力がなくなったとき、人間としての尊厳まで奪われる。自分の存在そのものまで否定され、忘れ去られていく。愛する者達から、のけ者にされ、捨てられていく。これほどの苦しみが在るであろうか。その苦しみを理解せずに、孝を語っても意味がない。愛のない福祉は、残酷なだけである。
 だから、孝心が必要なのである。孝は、愛によって支えられている。義務によって支えられているわけではない。愛がなければ孝は、成り立たないのである。仁義なくして孝心なし。故に、孝の本質は、仁義、仁愛である。

 現代の福祉行政は、一生の在り方を忘れている。人の心を忘れている。生きることの意義を見落としている。その為に、肝心の孝心が失われつつある。その為に、結果的に弱者切り捨てとなっている。

 この様な考え方は、唯物論的快楽主義から来ている。ただ、設備や制度を整えれば、老後の生活は、豊になるといえるであろうか。ただ物質的な快楽を追求すれば、人間が幸せになるという間違った考え方から来ている。人間には、感情がある。気持ちがある。心がある。それを忘れて福祉など成り立ちようがない。
 孝の本質とは、人生の生き様、在り方にある。人生の根源である。

 現代の福祉には、心がない。欠けている。介護、擁護を福祉だと思っている。金の問題だと割り切っている。育児・老後の問題は、人生の問題である。愛の問題である。人間にとって最も大切で崇高な問題である。だからこそ、孝が大切なのである。

 孝とは、肉親の情・情愛である。孝の本源は、愛、つまり、仁である。
 人間にとって最も力がない時、力が衰えた時に、どのような生き方ができるのかが、重要なのである。自分一人で生きていけない状況に置かれた人間が、人間らしい生き方ができるようにするのが、孝である。故にも孝の根本こそ愛である。仁である。

 孝心が廃れるのは、育児放棄、幼児虐待、捨て子と同根である。愛がないのである。孝養がないのである。人が自分以外の人の力を最も必要とするのは、生まれた時と、病に倒れた時、年老いた時である。人の力を最も必要とした時、最も求められるのが肉親の情である。それが孝である。
 その愛、孝を否定したところに現代社会の不毛はある。現代社会は、健常者と、青壮年しか必要としていない。というよりも相手にしていない。そこに現代社会の病巣がある。社会・国家が必要としている事が本義なのか、国民一人一人が必要としている事が本義なのか。国民国家である民主主義国では明確である。ところが、民主主義国においてその心を忘れている。

 今の、設備も制度も体のいい姥捨て山に過ぎない。本当に必要なのは、人としてどうあるべきかである。それは、育児・教育も同様である。子供を産み育てることの意味を知らずに、快楽の果てに出産をする親が増えている。親になるという事がどんな意味を持つのかを教えていないからである。人としていかに生きるべきかを忘れて教育は、教育の名に値しない。唯物論的快楽主義の行きつく果ては、荒廃しかない。母性愛も孝心も同じ心である。だから、孝とは、ただ単に親に尽くす事を意味するのではない。親の言うなりになることを意味するのではない。上辺だけの孝養・孝行は、むしろ仁も義もない。忠恕(ちゅうじょ)もない。それは、骸である。見せかけのものにすぎない。上辺だけの見栄や体裁に過ぎない。孝というのは、なりふりかまわず愛する事である。見栄などどうでも良い、体裁などどうでも良い。ただ純真である。それが孝である。
 世話になりたくない。世話になるのは恥だと思い込ませているところに間違いがある。

 孝というのは、子供にのみ求められるものではない。親にも求められるものである。子が親のために犠牲になるのは当然だという風潮やただ無条件に親に言いなりになることを孝というのではない。それこそ孝からもっとも遠い思想である。孝の根本は、忠恕である。愛である。愛のないところ、仁のないところに孝は成り立たない。

 親の愛なくして孝心は育たない。孝の根本は、仁愛である。故に、孝行は、一方通行のものではない。親であれば、無条件に子に孝行されるというのは思い違いである。親の恩があって孝は成立する。一方が一方に対する無条件の服従を求めることにより不条理が発生する。

 今の社会は、一人で生きていける者を対象としている。一人で生きていく力がない者を少なくとも精神的な部分、気持ちや感情、想い、心といった部分では切り捨てている。しかし、その切り捨てている部分こそ最も人間的な部分なのである事を忘れてはならない。切り捨てた部分にあるのが孝である。そして、孝行の多くの部分を担ってきたのが、女性か、女性の仕事の部分である。その為に、女性の社会に働きに出るに従って孝の部分が忘れ去られてきたのである。
 男のエゴというばそれまでだが、親に対する孝行を女性に頼り切りにしながら、家庭のいざこざから逃れてきた。そのツケが、心のない福祉行政という形で廻ってきたのである。

 労働を悪だと見なす考え方が世の中を覆っている。働くざる者、食うべからずという考え方は、労働を悪だとする考え方ではない。労働を悪だとする考え方が、労働界や教育界を支配するようになってから、疎外は、深まっている。労働時間も勉強時間も限りなく少ない方がいいという考え方が支配的になってしまった。そして、反労働主義、反勉強主義によって嫌労働、嫌勉強が横溢している。これでは、仕事や勉強に喜びを見出すなどという発想は、生まれようがない。何事も過剰なのは、良くない。しかし、だからといって全否定するのは行き過ぎである。

 賤しい仕事、封建的な事として、お為ごかしに現代社会が切り捨てていこうとしている事、育児、家事労働、終身雇用といった事に孝の意義が隠されている。つまり、子供と親の面倒をみると言う事、歳をとっても人間らしい生き方ができるようにするという事が忘れられている。

 家事を否定する背後には、女性蔑視が隠されている。質が悪いのは、女性の側にこの女性蔑視の発想が根強くあるからである。本来誇るべき仕事を当事者が卑しめ、否定してしまうことによって社会的地位も評価も上がらず。経済的な裏付けも得られないままに放置されている。それが最大の問題なのである。

 歳をとったら辛い仕事から解放するという発想は、仕事が生き甲斐だと言う事を忘れている。年寄りには、年寄りの役割がある。年寄りにしかできないことがある。徳がある。それを否定してはならない。年寄りの功用を忘れてはならない。

 なによりも、敬う気持ちがない。人生の先輩に対する尊敬心がない。人として生きていて一番辛いことは、無視されることである。仕事を奪うと言う事は、生き甲斐を奪うと言う事である。相手を認め、敬う気持ちがないかぎり、報われることはない。

 老いても、人として認められ、敬われてこそはじめて生き甲斐がある。立派な施設に入れて世話をしたところで、仕事や生き甲斐を奪ってしまうのは、牢獄に入れるのと同じである。必要とされるからこそ、人は、生きていく勇気が持てるのである。
 力をなくし、不必要な人間だと思い込みそうになった時こそ、その人を認め、敬うことが必要なのである。それが孝行である。

 孝行とは、行いである。つまり、実践である。学ぶことである。教わる事である。文明、科学の発達は、その人の経験や知識を陳腐化しているように錯覚させる。しかし、長い人生を生きてきた人にしか解らないことは沢山ある。指導者とは、読んで字のごとく、指導する者の意である。指導を受けねばならぬ事は多くある。孝行の実践とは、敬い学ぶことである。その敬心こそ孝心なのである。

 孝行は、人生観によって定まる。孝行というのは、人生を考えることである。






                    


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