性行為に関わる倫理観は、繊細でもろく、壊れやすい。性と倫理の要にあるのが愛である。また、快楽は強く、人を狂わせる力を秘めている。
性に関する倫理観は、愛情と欲望、感情と理性、そして、快楽との危うい均衡の上に成立している。
倫理観は、自己の自律的行動を制御する基盤である。故に、倫理観が乱れると人間の自律性、自制心を失うことにも結びつく。つまり、自己喪失、意志の喪失、人格崩壊を招く危険性が高い。
性は、生殖に関わる行為である。故に、家族の基幹をなす行為である。性に対するモラルの喪失は、家族の崩壊、喪失を招く怖れがある。
性欲は、有無の問題、即ち、存在の問題であって、善悪、即ち、倫理の問題ではない。
性欲は、認識の問題である。人は、性欲を何らかの形で自分の内に感じるから問題になるのである。
性欲を何も感じない人間にとって性欲から派生する問題は無意味である。問題にもならない。それがたとえ歪んだものだとしても、自分の内に性欲を感じるから性が問題になるのである。
また、性欲が自己の内面に関わる問題だから、優越感も、劣等感も生じるのである。
それ以外は、自分と関わりがない限り、例えば、暴力的に性欲の捌け口とされた様な場合を除いて、問題にならない。逆に、暴力的に性欲の捌け口とされた場合は、精神的な傷を残す。それは、自己の内面に土足で踏み込まれるようなことだからである。
性欲で無視しえないのは、性欲は、快楽と結びついて強い衝動をもたらすことである。性欲がもたらす快楽は、その人の生き方をも変えるほどの影響力がある。それ故に、性欲の存在は、その人の価値観の形成する重大な要素であることは間違いない。ただ、性欲が価値観を決めるわけではない。価値観を形成するのは、自己である。
善悪は、自己と対象との関係、人間と人間との関係の中で必要とされる事によって形成される基準である。
善悪の基準は、意志的なものである。意志的なものであるから、その根源には、愛がなければならない。
愛は、人を思いやる心、感情である。人と人との間に相手を思いやる心がなくなれば、その行為は暴力的な物となる。愛は、恋愛関係にある者の間だけに生じるのではない。人間関係全般、時には、人間以外の生物や物に対しても生じる感情である。自己と他者、対象とを結びつける精神的な強い力、作用である。故に、人と人との関係は、強い意志を前提とする。故に、その根源は、愛なのである。
性欲が存在しすることが悪いのではない。その性欲を制御し、自分の行動を抑制できなくなることが悪いのである。相手を思いやる心を失うことが悪いのである。愛のない性欲は、暴力的なものになりやすい。欲望が先立つからである。
性的問題ほど、意見が両極端に分かれる問題は、他にあまり見受けない。
キリスト教にせよ、仏教にせよ、イスラム教にせよ、主要な宗教の大多数は、あからさまに性について誇示するのは、はしたない、恥ずべき行為としている。
恥ずべき行為どころか、禁欲を奨励し、性そのものを罪悪視する傾向すらあるのに、一方において、現実の社会では、性的に強い者を称える傾向がある。世の中では、性が全てであるような、快楽主義的に風潮が支配的ですらある。
離婚の最大の原因は、性に対する不満足であり、性的な不能者は、無能者のようにすら見なす。人を嘲弄する手段として、性的な問題は、一番効果的であり、差別の中でも大きな要素を占めるのが性的な問題である。この様に、性に対する評価は、両極端である。
その上、性的な能力は、比較されやすいし、また、現実に比較されている。比較されやすいという事は、劣等感や心理的な瑕疵となりやすい。異性との問題だから、当然と言えば当然なのだが、だからこそ、個人的な好みの問題と言われれば、その通りとしか言えないのである。とは言っても性の問題ほど両極端な反応を見せるものは少ない。そして、いずれにしても切実な問題を孕んでいる。
根本に異性愛の問題が潜んでいるからである。人間の重要な欲求の一つ、また、生き甲斐の一つに異性から愛されたいという欲求がある。そして、この欲求が満たされないと、自己の存在を否定されたようにすら受け取る。そして長く劣等感や心の傷として残ることすらある。劣等感や心の傷として残るから、性的不能や性的指向は、その人間の人格重大な影を投げかけやすい。精神医学では重要な課題である。犯罪原因の多くが性的な問題に端を発している。
しかし、考えてみれば、性欲というのは、生存に必要な欲ではない。また、性的に不能だからと言って社会生活に支障をきたすわけではない。また、性的指向は、個人の問題に帰結する。性に対して過剰に反応するのが問題なのである。生きていく為には、性的欲求などどうでもいいのである。性的欲求こそが生きていく上で最大の障害となる。諸悪の根元だと頭から否定する者すらいる。
欲は、活力である。活力だからこそ制御しなければならない。性欲を頭から否定するのもおかしいが、性欲を野放図に解放するのもおかしい。だからこそ、性問題に対する評価が両極端に別れやすいのである。性欲の処理は、性欲が愛を壊さない様に、適正に制御する事こそ、最大の課題なのである。
快楽主義者の中には、理性や自制心を否定的にとらえている者がいるが、理性や自制心は、個人の自立を支えるものである。理性や自制心が喪失したら、人間は、自分を制御する事ができなくなる。それは、自己の崩壊、喪失である。自己を失った者は、操り人形でしかない。それは、隷属の始まりである。特に、性的な隷属は、精神的な隷属を意味する。精神の隷属は、意志を支配されることを意味する。それは、人間性を失うことでもある。魂の隷属である。
性欲が他の欲と違うのは、生存に関連した欲ではないという事である。だから、性欲は、純粋の欲望としてその人間の生存の為の行為から乖離しやすい。本来の働きから乖離し、欲望を暴発させる。さらに、生存に関わらない性欲は、快楽と直接的に結びついている。生存本能から乖離した性欲は、快楽と直接結びついて、欲望自体が自己目的化する危険性を常に孕んでいる。
この様な性欲は、羞恥心によって抑制されている。羞恥心は、人間の尊厳に関わる感情である。故に、羞恥心が損なわれると人間としての尊厳、即ち、誇りが著しく傷つけられる。誇りは、自信や自己存在の根源である。誇りを失うことは、自己の存在意義が失われ、自信の喪失に結びつく。つまり、自己の存在が稀薄になるのである。
性行為は、理性よりも感情によって支配されていおり抑制しにくい。尚かつ、愛情は、理性では割り切れない。故に、性的衝動は、感情に直接訴えることで、理性の働きを弱め、それによって、感情が暴発し、暴走させる危険性を含んでいる。
行為は、想念を現実化し、自己の価値体系の修正を迫る。迫られた内容が、既存の価値観と整合性が取れなかった場合、価値体系全体を損なう危険性がでてくる。特に、性行為は、その傾向がある。性行為が、人生の基幹を損ない、それが、その後の人生の方向性を狂わせることにもなりかねない。どちらが本当の人生かについては、議論が分かれるところだが、少なくとも言えることは、衝動的、刹那的な行為によって人生の連続性、継続性が損なわれていることだけは間違いない。そこには、自分の意志に基づく決断が欠如している。つまり、自分が、望んでいた人生とは、違う方向に進路がたった一度の行為で曲げられてしまうこともあるという事である。余程注意しなければならない。性行為は、軽挙妄動を慎むべき行為である。また、間違った場合、弁解も、正当化もできない行為でもある。過ちは、ただひたすら悔い改めるしかない。
種の保存を目的とした性行為は、愛によって発現される。性行為の根幹にある愛は、人と人との思いやりや結びつきを強める効果がある。しかし、性欲が強すぎるとこの愛の力を弱め、相手への労(いたわ)りや思いやりを喪失させる。これは、人間関係の根幹を破壊してしまう。
性行為には、相手がいる。性行為は、個人的趣向に左右される。性行為は、個人の思想に基づいている。相手の意志を確認できなければ、それは、自分の価値観、価値観どころか、自分の欲求・欲望を一方的に相手に押し付けることになる。更に言えば、一方的な行動は、相手を傷つけるから周囲の人間の理解を得ることも難しい。
性行為は、親しい人よりも未知な人に向けられることが多い。それだけ相手に無理解な場合が多くなる。相手をよく理解してないのに、自分の欲望だけをむき出しにして相手に強要すれば、結果は明らかである。求めているものが違うのに、抑制が効かなくなれば、暴力的になる。性欲が、攻撃的、暴力的になるのは、相手への無理解が前提にあるからである。結局、自制が効かないのだ。
性という行為自体が、対人関係の上に成り立っている。性行為の暴走は、人間関係を破綻させる。人間関係上、性行為は、相手が居るが故に、不可逆な行為である。後戻りができない。人間関係を破壊した上に、感情によって支配される性行為は、憎しみや憎悪を煽り立てる。つまり、もつれた愛憎関係は、憎しみや憎悪の巣窟となる。
更に、それが快楽によって歯止めが効かなくなる。快楽は、強く、人間の理性を狂わせる。快楽も欲望も危険物なのである。
男と女の差は、基本的に決断にあると私は、思う。男は、子をなそうとした時、決断しなければならない。欲望は、自制できる。しかし、女は、力づくでも強いられる事がある。ならば、責任は、男にある。しかも、女は、子を産み、育児をせねばならない。だから、男は、決断せねばならない。決断せねば責任をとれない。欲に負けるのは、自分に負けたことになるのである。だから、愛がなければ、責任は持てない。
性行為・生殖は、出産や育児に直接かかわっている。と言うよりもそれが、本来の目的でもあり働きである。性行為は、子供への愛と責任を前提としている。性行為は、家族愛を前提としている。性行為は、性欲の捌け口ではない。快楽は、副次的なものである。性欲を快楽の捌け口としてしか考えられぬ者は、根本的に、人間不信か、愛情に飢えているのである。
更に子をなせば、現実的な問題として経済的な利害が発生する。その上に、肉体的、物理的、精神的障害も発生する。病気も怖い。病気は、肉体的にも、精神的にも起こる。そして、人生を破滅させる。正しい知識を持たないと、快楽が強いだけ、肉体的にも、精神的にも重い病にかかる。時には、肉体的、精神的死に至る。
性欲を野放図に解放するのは、問題が多い。だからといって性欲を禁忌(タブー)し、悪い事として封じ込めるのも問題である。倫理的規制が強すぎると疎外される。性欲が極端に抑圧されてしまう。性行為そのものを罪悪視するようになる。それは、残酷な仕打ちを生む。性欲を抑圧すれば、健全な人間関係は築けない。人を愛することができない。
性行為は、種を保存するための不可欠な行為。命を育む、神聖な営み。罪ではない。むしろ喜びである。性は、愛の喜びである。尊い行為である。だからこそ、それが冒涜された時、報いを受けるのである。性は、愛の本源である。性は、愛の表現である。性は、愛の発現である。だから、性を否定するのは、愚かである。
私は、危険物を扱う事業に従事している。危険物を扱う物にとって、保安は、モラルである。モラルとは、人間が人間として最低限守らなければ、ならない規範である。保安をするしないが直接事故に結びつかないと言う者もいる。法で決められた事を守っていればいい。逆に、法で決められているから保安をするのだという考えもある。しかし、保安は、モラルである。つまり、保安に求められるのは、法で決められているから、守るという性格のものではない。それは、嘘をついてはならない。人の物を盗んではいけないと言うのと同じ事である。バレなければいい、何もなければ良いというのではない。自制心の問題なのである。自分の問題なのである。性もモラルの問題である。自制心の問題である。愛情の問題である。ただ、性欲は、粗雑で荒々しい。だからこそ、性欲とモラルは、常に緊張関係にあるのである。
性は、繊細で、もろく崩れやすい倫理観の上に成り立っているのである。その倫理観は、ガラスのように透明で壊れやすいのである。
だから、性は、一定のルール・規律の下に抑制することが至当なのである。人間には、慎み(つつしみ)が大切なのである。愛なのである。
性を語る事は、生を語る事
愛と性
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