結婚について


 最近、結婚しない人が増えている。社会問題にまでなっている。

 なぜ、結婚しないのか。それとも結婚できないのか。

 少子化対策の一つとして保育園の数が足りないことをあげる人が言う。
 挙げ句に、最近、結婚年齢が上がっているのも保育園の数が足りないからだという。

 確かに、保育園の問題は、深刻な問題だと私も思う。
 しかし、それは、育児環境や家族環境としてである。保育園の数が、即、少子化対策や結婚対策に結びつくとは思えない。問題なのは、独身者が結婚生活に魅力を感じないことである。要するに結婚したいと切実に思わないことが問題なのである。
 なぜならば、結婚しなくても当座は困らないし、むしろ、結婚した方が色々な制約を受けることになることの方が多いからである。その辺を理解しないとなぜ、結婚しない人が増えているのか解るはずがない。
 今の若者にとって結婚しない方が、楽だし、楽しいのである。結婚すると鬱陶しい人間関係が生まれ、いろんな負担や制約が増える。だから単純に結婚しないのである。そして、気がついたらいつの間にか歳をとっているのである。

 結婚しないのは、心の問題である。
 保育園の数が足りないからではない。
 大体、結婚する前から保育園の数など心配したりはしない。
 結婚することが幸せに繋がると思えないから結婚しないのである。
 裏返してみれば、結婚すると不幸になる。
 結婚している人が幸せに見えない。
 だから、結婚しないのである。

 問題は幸せは楽することだと思い込んでいることである。
 楽しくなければ結婚するのは厭だと思っていることである。

 結婚は、楽をするためにするものではない。ハッキリ言うと、苦労をするために結婚するのである。なぜならば、それが生きることだからである。
 生きる過程には、哀しい出来事が沢山ある。
 限られた時間の中で、果てのない欲と葛藤し続けなければならない。
 それこそが苦である。
 その苦しみと哀しみを乗り越えた先にこそ幸せがある。
 だからこそ愛が必要なのである。

 一生安楽に暮らしたいならば、結婚なんてしない方が良い。
 事実、そう思っているから結婚しないのである。
 その考えを改めさせない限り、結婚なんてしやしない。
 今の時代、独身者の方が経済的にも、精神的にも、肉体的にも、時間的にも、既婚者よりもずっと恵まれている。
 結婚したら、独身時代よりずっと生活の水準を抑えなければならなくなる。それまで、もらっていた手取のほとんどが消えてなくなり、自由になるのは僅かばかりの小遣いに減らされてしまう。
 女性にしてみれば、煩わしい人間関係が新しく生じる上に、それまで自分が生きてきた環境とまったく違う環境に飛び込んでいかなければならなくなる。
 しかも、結婚した後の生活は、皆目見当がつかないのである。
 惰性でも、環境を変えるくらいなら現状を維持した方が楽に決まっている。
 だから、独身と結婚を考えたら独身時代の方がずっと気楽なのである。親や周囲からせいぜい小言を言われるのが関の山である。最近は、その親まであまり口うるさく言わなくなり、いつまでも、好きにして良いんだよと甘言を弄するくらいである。
 これでは、結婚なんてしたくないのが当たり前である。それで少子高齢化だ。無縁社会だとワアワア騒いだところで、意味がない。空騒ぎに過ぎない。
 挙げ句に、結婚しないのは保育園の数が足りないからだなんてとんちんかんなことを言っても始まらない。
 保育園の数を問題とするなら、それ以前に、子供を育てる環境こそ問題とすべきなのである。安心して子供産んで育てられる環境こそ大切なのであり、その中の一つに保育園の問題があるのである。

 何が一番大切なのか。
 それを忘れて話を組み立てても意味はない。
 何が一番大切か。それは愛情である。愛情がなければ、環境の話をしても意味がない。愛情のない環境で、子育てはできない。最初から子供なんて産まない方が良い。出産には覚悟が必要なのである。覚悟もなく子を産めば、虐待や捨て子の種になる。
 子供を育てる覚悟もなく、子を産むのは罪悪である。
 一番、大切なのは、愛情である。子育てにとってどの様な環境がいいのか。それは、子供中心でなければならない。その根本に愛情がなければ意味がない。そして、それは女性問題である。
 女性問題の本質は、第一に、女性としての問題である。第二に、娘としての問題である。第三に、妻としての問題である。第四に、母としての問題である。第五に、姑としての問題である。女性問題というのは多様なのである。

 結婚の問題も愛情の問題である。
 愛情がないところで結婚について語ることほど虚しい事はない。
 結婚は金が目的でも快楽が目的でするのでもない。
 愛があるから結婚するのである。
 だからこそ、結婚は、苦労することを前提としてする事なのである。結婚は、楽するためにするのではない。
 愛し合い、伴に、苦しみ、悩みを乗り越えるためにするのである。

 なぜ、結婚をするのか。
 それは楽をするためではない。生きる為である。
 生きると言うことは、哀しい。
 生病老死の苦しみから逃れられるわけではない。確かに、医学、科学が進歩した。しかし、生病老死の苦しみがなくなったわけではない。
 会うは別れの始めなり。愛する人と出会うことは無上の喜びだけど、必ず別れる時がくる。愛すれば愛するほど悲しみは深く、人を絶望の淵へと追いやってしまう。それでも尚人は人を愛せざるをえないのだ。
 楽をするために結婚をするのではない。愛するが故に結婚をするのだ。
 愛すると言う事は、快楽ではない。
 互いに許し合うことである。互いに許し合い、手を携え会うことである。

 伴に生き、伴に苦しみ。その先にある喜びを分かち合おうと思えた時、人は、結婚を決意するのだ。結婚は義務故にするのではない。愛する故に伴に生きることを誓う。その誓いこそが結婚なのである。

 結婚は縁である。自分の意志が織り上げた縁である。

 結婚に幻想を抱くべきではない。結婚に幻想を抱かせるべきでもない。
 結婚生活は、修羅場である。人は、修羅を生きるのである。
 生まれた場所も、時間も、環境も、違う。当然価値観も違う男と女が一つ屋根の下に暮らすのである。それは、葛藤の連続である。
 独身時代の安穏とした生活を捨て、愛憎の坩堝へと飛び込むのである。
 自分の空間がどんどんと侵蝕され、やがては、相手の色に染められていく。安楽な空間は狭められ、変わりに煩わしい人間関係に絡まれていく。怨念や恩讐、嫉妬、妬み、やっかみそう言った諸々の感情が絡まりつき。複雑な人間模様を醸し出していく。それが結婚なのである。
 そして、それが生きると言うことである。

 結婚とは、誰にも見せられない所を曝しあうことである。裸になることである。あからさまな世界である。だからこそ、清浄なる世界が期待できるのである。
 真の愛を得たいならば、綺麗なところばかりを見るのではなく。相手の醜いところも、厭なところも、一切合切受け容れ、許し合わなければならない。それは、自分の醜いところね厭なところも許す事へと繋がる。それこそが結婚なのである。愛なのである。愛と憎しみは表裏の関係にある。美と醜が裏表であるように・・・。

 結婚とは、生きることなのである。生きる真実なのである。
 なぜ、結婚するのか。それは人として生きるためである。
 それが理解されなければ、結婚を促す事はできないのである。

 人の世のしがらみは、己の生き様に絡みつく。怨念や執念、執着心が哀しいほどにまとわりついてくる。年を経れば否応なく穢れ。取り返しようのない過ちに苦しめられる。一度口にしたことは、なかなか打ち消しようがなく。思いやる心は虚しくなりがちである。結局、有り難うの言葉さえなかなかかけられずに悔やむことばかりである。
 それでも、伴に人生を歩む者がいるからこそ生き甲斐があるのだ。辛いから、苦しいから、面倒臭いからと言っていたら生きていくことさえできない。
 一人でいるのは気楽だなんて言っていると、気がつかない内に年をいつの間にかとり、気がついてみたら、無縁社会に住むこととなる。

 生きることは、哀しい。人生は哀しい。その儚(はかな)さ故に、又、喜びも一塩なのである。そこに愛こそがある。

 結婚とは、生きることである。愛を成就することである。生活を伴にすることである。

 結婚は楽をするためにするのではない。又、結婚すれば楽になるわけではない。
 結婚とは、苦労を伴にするためにするものである。

友人の息子の結婚式にて



航平君、芽久美さんおめでとうございます。

縁。縁は、奇なものです。
縁は出逢いによって始まります。
航平君のお父様と私が出会ったのは、もうかれこれ四十年ほど前の東京です。
そこで私が主催したパーティでお父様は、あなたのお母様と出会いました。
それから十数年たった頃、今度は、あなたのお父様が今の私の家内を紹介してくれました。これも縁です。
しかも、あなたのお母様と私の家内とは、同じ名前の陽子と言います。
遠く離れた東京と九州が目に見えない糸で結ばれていた気がします。
私と出会った頃のお父様は、狭い社会を飛び出し広く世界に雄飛することを夢みていました。
そして、航平君が生まれた時に、自分の見果てぬ夢を託して航平と名付けたと聞きます。

我々は、無数の縁に結ばれています。
絆。
縁には良き縁と悪しき縁があります。

縁は出逢った時に決まります。
だから出逢いを大切にしろと教えられてきました。
古来、故に、良き縁、良き友を選べと諭されてきました。
四十年を経ても私とあなたのお父様との友情に変わりはありません。

私の家内は、九州から東海へ、航平君のお母さんは、東京から九州へと嫁いできました。これも又、縁だと思います。

幸せは、自分の手で勝ち取るものです。

最近、無縁社会という事がよく言われるようになりました。
でも、無縁、無縁と言うけれど無縁の意味がよく解っているのか疑問に思います。
どんな豪邸に住んでいようと孤独であれば、結局無縁です。
縁というのは、人々の心にある絆です。
建物や制度、お金が縁を作るのではありません。
家族、友達、仲間、そして、愛する人々との繋がりが縁を作るのです。
その家族や友達、仲間、そして、愛する人を蔑(ないがし)ろにして無縁、無縁といったところで虚しいばかりです。
でも、こんな不人情な国にしてしまったのは、自分達だと最近痛感するようになってきました。

顧みて、私は、私達の世代は大きな間違いをしてきたと思っています。
そして、その過ちを潔く我々が認めなければ、この国は良くならないととみに思うようになりました。

我々の世代は、何でもかんでも反対といって通してきました。

しかし、ただ親や世間に反撥するだけでは、世の中も良くならないし、幸せにもなれないことを我々の世代は身を以て体験しました。
もっと物事を肯定的に考えなければなりません。
世間に反撥をしている内に我々は大切な物を見失ってきた気がします。

例えば、国を愛する事です。
私達の時代には、愛国心などと言ったら仲間外れにされてしまう風潮がありました。
国を愛すると言う事はも理屈ではありません。
情けです。
それをただ理屈で抑え込もうとした。それは間違いです。

日本を愛し、故郷である九州を愛し、父母、兄弟、家族を愛し、そして、今、あなたがこれから生涯を伴にしようとする芽久美さんを心から愛することです。

その時、あなたの眼前には洋々たる未来が開けるのです。
今、あなた方の時代が始まろうとしているのです。
さあ、力強く、自信を持って、誇り高く、そして、伴に手を携えて目の前にある扉を押し開くのです。

男と、女は違うというと最近は、顰蹙を買いそうですが、
この際だからハッキリ言います。
男と女は違う。
男は女に対して責任を持たなくてはなりません。
つまり、男は女を護らなければならないと言う事です。
第一に、結婚に際して男より、女性の方が捨てる物が沢山あります。
それを男はしっかり受け止めなければなりません。
また、女は、子供を産み、育てるという大切な責任があります。
大事な仕事であると同時に、大変なハンディです。

最近、起こった出来事を見ますと、世界は激動の時代へ向かっているという実感があります。
大変な時代が始まろうとしているなと思います。
どんな時代になるのか、私には、皆目見当がつきません。
でも、あなた方には、前を見て欲しいのです。
夜明け前が最も暗いと言います。
だからこそ前を見るのです。
夜明け前の闇の中で迷ったら、手を取り合って未来を見て欲しいのです。
この国の未来はあなた方の時代なのですから・・・。
世の中が乱れ、先が見えなくなった時、頼るべきは、家族の絆です。
そして、愛する者のために全身全霊で闘うのです。

希望は、ここに集った皆さまの縁の中にあるのだと思います。
そして、二人の絆にありのです。

ご列席の皆さまのご多幸を祈念して私の祝辞とさせていただきたいと思います。




なぜ、結婚しなくなったのか。
結婚




        


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