全ては愛から始まる
人は、愛される事から愛する事を学ぶ。
全ては、愛から始まる。
全ては、愛に始まる。
全ては、愛する事から始まる。
全ては、愛される事から始まる。
全ては、母の胸に抱かれた時から始まる。
母の温もりを感じた時から始まる。
母の愛を感じたところから始まる。
人は、生まれるとすぐに、産声を上げ、泣き叫び、母を捜し求める。
人は、母の抱かれる事で、愛される事を知る。
愛される事を知り、愛する事を知る。
それが、愛との出逢い。
命・魂との出逢い。
産まれたばかりの愛は、初心(うぶ)なのである。
母を抱きしめ、乳を含むことで、人は、生きていることを実感する。
生きる喜びを知る。
そして、母の胸の中で安らかに寝息を立てるのである。
人は、愛される事で自分を知る。
母の愛をすら知らぬ者は、不幸だ。それ自体が不幸の源になる。
愛された事のない者は、愛する事の意味も知らぬ儘、愛を求めて彷徨(さまよ)い歩く。
人を愛する事によってはじめて人は、癒(いや)される。
それなのに、愛された事のない者は、愛する術(すべ)すら解らない。
人は、不器用に人を愛する。
人は、純朴に人を愛する。
人は、朴訥と人を愛する。
人は、素朴に人を愛する。
人は、純粋に人を愛する。
人は、純情に人を愛する。
なぜならば、愛は、人を思いやる情けだからである。
人を傷つけるような刺々(とげとげ)しさや鋭利さではない。
人を包む込むような温かさなのである。
温もりなのである。
懐かしさなのである。
出逢い。
全ては、出逢いから始まる。
人は、愛する事で生きることの意味を知る。
愛する事で自分を再確認する。
愛する事から、また、新たな自分を知る。
愛する事から、また、新たな人生が始まる。
愛する事から、また、新たな生き方を見出す。
だから、愛する人との出逢いは、新たな自分の始まり。
愛する人との出逢いから、また全ては始まる。
愛こそ全て。
愛は、全てを変える。
人は皆、愛を必要としている。
愛がなければ生きられない。
そして、人は、最後に神と出逢う。
愛の本質は、神であり。
神の本質は愛である。
憎しみからは何も生まれない。在るのは、漆黒の闇だけだ
闇から人を救うのも愛の力、光しかない。
その光の源に神が居られる。
愛は、希望の光。生きる力。命そのもの。
愛は救い。
人は愛する事によって救われる。
人は、愛する事で、多くの事を学ぶ。
人は、愛する事で多くのことを知る。
愛する事で、人生の深淵を除くことができる。
汝、愛せよ。そして、生きよ。
母の愛
全ては、愛に始まる。
育児の根本は、愛である。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、出産で消耗、憔悴しきった身体をむち打ちながら、二時間おきに泣いてせがむ、我が子に乳を含ませる。それをさせるのは、母の愛以外にない。
ひ弱な小鳥さえも我が子の危機に際しては、蛇の前に身を横たえて必死に雛を守ろうとする。
人は、母の愛によってこの世で始めて愛に出会う。愛される事によって愛する事を学ぶ。育児の大切さは、愛する事で、愛の本質を伝えることである。
子供は、母の愛だけを頼ってこの世に生を受ける。母の愛が受けられなければ、子供は生きていけないのである。
現代人は、この母性を否定しようとしている。育児の軽視が、現代社会の病根である。女は、母となり、真実の愛に目覚める。子供を愛する事で多くのことを学ぶ。そして、大きく成長をする。人生の深淵を知る。子供を産み育てるのは、女性にだけ許された崇高な仕事である。
愛情がなければ、人間関係は、粘着力を失って砂のような関係になってしまう。愛は、本来、粘着的な力、ウェットなものである。だから、ネバネバと時に鬱陶(うっとう)しくなる。しかし、だからといって愛を否定したら砂漠のように乾いた人間関係になってしまう。
かつては、幸せとは何かについて、論じた。今は、幸せについて論じようともしない。語るのは、快楽についてだけだ。それも、即物的、刹那的快楽だけだ。精神的快楽や持続的快楽は二の次である。
幸せとは何かを考えないから、刹那的な快楽や即物的な快楽、一時的な快楽のために、全てを投げ出してしまう。価値の軽重が判断できないのである。
覗きや痴漢と言った下らないことで、自分の地位も名誉も失い。家族を路頭に迷わし、家族の離散まで招く。自制心が極端になくなっている。それは、愛を否定したからである。幸せの本質を見失ったからである。
思うだけならば許されても実際に行動したら許されないことがある。それを自覚するから、自分を抑制する。自制心がなくなれば、社会人としては失格である。つまり、愛は、モラルである。愛は、義である。愛は、礼である。克己復礼こそ愛の本質である。
愛が社会変革の力となった時代がある。それは、体制が、愛を一定の枠組みの中に押し込もうとしたからである。愛が既成の秩序やモラルの反したからではない。愛は、元々主体的な力である。自己以外の者が支配することはできない。それを外部の人間がお仕着せようとしたから愛は反発力として働いたに過ぎない。ところが、今は、自分の邪悪な欲望を実現止揚とする者が、愛の力を悪用する。彼等が、秩序やモラルと愛は反するように喧伝するのである。しかし、愛と欲とは別である。愛は、自分を律する力。欲を抑制する働きである。さもなくば、愛する者を傷つけてしまう。
子は鎹(かすがい)という。子供は、家族の要である。母子の絆(きずな)によって家族の関係は保たれる。母子の絆は、一方通行なものではない。双方向なものだ。だから強靱になる。この強う愛の絆が柱となりそれを周囲の人間関係が支えれば、家族は、盤石となる。逆にこの母子の絆が弱まれば、家族は、求心力を失い。崩壊の危機を迎える。だからこそ、育児は大切なのである。育児によってこの愛の力は、強化されるのである。
物事には、手順・段取りがある。現代は、結果と原因が転倒していることが多々ある。順序が逆だ。意味もなく、婚前交渉の是非を問うているのではない。要は、子供を産むのが先か、結婚するのが先かの問題なのだ。理屈の上では、愛が在れば、どうでも良いではないかと言うことになりそうだが、では、愛とは何かと言う観点から考えると、そうは、簡単にいかない。欲望が先走れば、愛は見失われる。もともと、愛の本質は、相手を思いやる心である。相手が嫌な想いをすることがみすみす解っているのに、自制できないのは、愛がない証拠である。結婚は、意志の問題であり、愛情の問題、思いやりである。子供ができるのは、欲望の問題、自制心の問題である。欲望が勝てば、それが愛故の行為であるか否かは解らない。自制心が勝てば愛故に我慢しているからである。愛は、自制するのである。物事には順序があるのである。
母は子に依存していない。子は母に依存している。だから、母にあるのは、愛である。母親に愛がなければ、絆は断ちきられる。母の愛を否定していたら現代人に未来はない。
戦後馬鹿な知識人と教育者が他人に迷惑さえかけなければ、何をしても良い。それが自由主義だと教えた。愚かなことを教えたものだ。親に迷惑をかけない子はいない。なぜならば、子は一方的に親に依存しているからだ。同じように、国に迷惑をかけない国民はいない。だから、迷惑をかけることが悪いのではない。それを自覚しないことが悪いのである。ところが、迷惑をかけなければと教えてしまった。迷惑をかけなければと言うのは、言い換えれば、迷惑をかけないで済むと言う事になる。だから、自分が迷惑をかけていることを自覚しなくなった。残されたのは、何をしても良いだけである。
親の迷惑を知らない事は、親の愛も知らない事だ。だから、親の愛に背いてまでも好き勝手なことをする風潮を産んでしまった。
まるで愛が、愛に背かせているようだ。
親の愛を知れば、人は、真正直にしか生きられなくなる。
親の愛を知れば、親を悲しませたくないと思う。
それが理性だ。良心である。
愛よ。蘇れ(よみがえれ)。
神の愛
全ても始源は、神の愛である。全ての始まりは、神の愛である。
神の愛は、存在である。命である。恵みである。
人は、神に依存している。
神は、人に依存していない。
そこにあるのは、神の愛だ。
神の愛は、恵みである。
全ての終焉は、神の愛である。
神の愛は、許しである。癒しである。受容である。
神の愛は、成就である。
全ての始まりと、終わりは、神の愛である。
神の愛に始まり、神の祝福に終わる。それが真の人生である。
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