性を語る事は、生を語る事



性を語る事は、生を語る事である。
私は性欲を否定しない。
よくを否定したら生きる事そのものを否定するからだ。
しかし、四大宗教は、伴に、性に対しては厳しく、禁欲的である。中には、妻帯する禁止している宗教もある。
それは、性的行為には、自制心を失わせ、理性の働きを妨げる作用があるという事が主たる理由だと思われる。ただ、仏教は、生殖そのものまで否定している。それはこの世に生まれる事が苦の原因と見なすからである。
性的衝動は、人を狂わせる要素が隠されている。犯罪の多くは、男女関係かお金にまつわる事である。
私は、性そのものを否定しようとは思わない。それは天の摂理の一つだと考えるからである。ただ、欲望が人を狂わせる事も承知している。
それ故に、性のあり方については、何らかの取り決めがあってしかるべきだと考える。
社会的な取り決めが必要だとする理由は、第一に、性的行動は、自制心の働きを阻害するという点と第二に、性的行為には相手がいると言う事の二点においてである。
しかも性的行為は、往々にして暴力的行為を伴い。相手の心身を傷つけ、一生癒えぬ傷を負わせたり、時には、死に至らしめる事にもなるからである。

又、性には、男と女との間に認識のズレもある。そして、それが男女間に埋められない溝を作る事もある。だから、性行為を野放図にほったらかして良いというわけにはいかない。

性的行為は、自慰という行為があるにしても、基本的には、相手を必要としている。それ故に、相手に対する思いやりや人格の尊重が求められる。、妊娠した場合は、子供を産み育てるという責任が生じ、それなりの覚悟も必要とされる。
性行為には愛情が求められるのである。
しかし、性と愛とは、必ずしも一体ではない。そこが問題なのである。
最終的に妊娠という現実によって責任を負わされる女性の負担の方が格段に大きく。それが男と女の意識に大きな差を生み。それが男と女のトラブルの種にもなるのである。

性的行為には、快楽と欲に誘発されるある種の中毒性があり、衝動的な行動を引き起こしやすい。この衝動的行動は、暴力的にもなりやすい性格を持っている。
それ故に、厳格な宗教ほど性には否定的となり、厳しい戒律によって制約しようとする。

中毒的な行為には酒や煙草と言った未成年者には、ある程度規制すべき事、麻薬のように禁止すべき事、賭博のように社会的規範、モラルに属する事。或いは個人の意志に委ねられる事。
その基準は、他人にどれくらいの悪影響を及ぼすか、悪影響の質と程度、大きさによる。
強姦や売春行為、近親相姦は規制されるべき事。
同性愛は、社会的規範に委ねられるべき事。

愛は、非暴力的な感情と言われるがそれは誤解である。
愛には、荒々しき猛々しい側面がある。

性だけでなく、愛も又、人を狂わせる。

愛というのは、相手を思いやり、慈しむ感情である。ただ、それが特定の対象、(国とか個人)に偏って向けられると排他的で攻撃的になる傾向がある。

愛という概念そのものが元々日本には、存在しなかったと言われる。愛という概念が日本にもたらされたのは、キリスト教の伝来によると言われている。
愛という概念は、キリスト教的な概念、その根源に神の愛があると言われる。

キリスト教の愛の根源は神の愛である。
神の愛は無償の愛である。
神の愛は何らかの代償を求めているわけではない。

愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬(ねた)まず、愛は誇らず、驕(おご)らず、非禮(ひれい)を行はず、己の利を求めず、憤(いきど)ほらず、人の惡を念はず、不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、凡(おおよ)そ事忍(ことしの)び、おほよそ事信(ことしん)じ、おほよそ事望(ことのぞ)み、おほよそ事耐ふるなり。愛は長久(いつ)までも絶ゆることなし。然れど預言は廢(すた)れ、異言は止み、知識もまた廢(すた)らん。(コリント人への前の書十三章四節から八節)

仏教では性と愛とを一体的に捉える。キリスト教的な愛は仏教では、慈悲に近いと思われる。
儒教では、「仁」とか、「恕」に近いと考えられる。
ただ、仏教も儒教も唯一神を前提としているわけではない。
故に、神の絶対的愛を前提としているわけではない。
仏教は神の存在そのものに否定的であるし、儒教は、全てを超越した天という思想が根底にある。しかし、それは絶対神とは違う。
故に、一神教との言う神の愛とは異質である。

その意味では、日本人は愛という言葉の意味を正しく理解するのは難しいかもしれない。

神の愛というのは、普遍的愛であり、絶対的愛である。
故に、無条件であり、無償の愛である。

それに対して、日本人の言う愛は、個人的な感情であり、相対的な愛である。
日本人は愛に代償を求めているし、移ろいやすい感情でしかない。永遠の愛なんて求めようがない。
日本人の間において愛というと、今日では、男女間にある感情、恋愛感情みたいな事を主として考えられている。それは、日本人は、キリスト教的な意味での神の存在を前提としていない事による。
故に、日本人的な愛のとらえ方は、どちらかというと愛欲に偏りがちである。

日本人に限らず。人はゴシップが好きなようだ。人と人が好きに成り、また、別れ行く様をある事ない事、面白可笑しく話題にする。
それを愛という。恋愛模様という。しかし、それだけが愛ではない。

マザーテレサのように万人への愛をお示しになった方もいる。

日本人の言う愛は、男と女の間にある生々しい感情をさして言う。
しかし、この様な生々しい愛には、憎しみや妬みもある。

日本人にとって結婚は、人と人との誓いでしかない。それに対して、キリスト教徒の結婚は神との契約に基づく。
キリスト教徒にとって神の恵みの結果としての結婚である。だから、教会で誓約するのである。
日本人にとって旧い仕来りでは家と家の契約でしかなく、今では儀式でしかない。
だから、どんな神であろうと当人にはお構いなしである。最近では人前結婚式なるものまで流行っているくらいである。
日本人にって愛の神聖さなんてこの程度に過ぎない。
要するに愛は、人と人との関係の延長線上にしかない。

キリスト教的な愛も単純ではない。

古代ギリシアでは、愛の形には、アガペー(普遍的愛)、エロス(性愛)、フィリア(友愛)、ストルゲー(家族愛)の四つに分類されていた。心理学の世界では、ルーダス(遊戯的愛)、マニア(偏狂的愛)、プラグマ(実利的愛)の三つを加え、七つに分類したり、或いは、フィリアとストルゲーを一つにして六つに分類したりしている。

因みに、フランス革命の「自由、平等、友愛」(じゆう、びょうどう、ゆうあい)友愛は、フランス語でフラテルニテをいい、フィリアを本にした言葉であり、ラブではない。

日本人が好きなラブは、エロスから生まれている。
しかし、ラブの本質も神の愛を知らなければ偏ったものになる。

仏教では、かつては、愛という言葉は否定的に使われた。
愛は執着心と言う事になる。愛は苦悩の根源でもある。
その味方は、今でも多くの日本人の考え方に根深く残っている。
今でも大勢の人が愛にもだえ苦しむ。

性と愛とは、別次元の事である。
性と愛とを混同してしまうと性にまつわる事と愛にまつわる事が識別できなくなる。

肉欲と執着心に身も心も焼き焦がれ、悩み苦しむ。
それが愛だという。

しかし、それは純粋な愛を認めていないからである。
純粋な愛は清浄で、静粛である。
それは神の愛である。

多くの人は、古来、純潔と言う事を重んじた。
純潔というのは、何の混じりけもない純粋なという意味である。
そして、人々は、純粋無垢なる魂を神聖な者として尊んだのである。
純粋無垢なる魂を汚す不純な事を穢れとし、日本人は、この穢れを神に力によって洗い清めようとしたのである。
そして、純粋な魂を象徴する事として純粋な愛を求めたのである。

そして、穢れを知らぬ存在として処女を神に捧げたのである。

純粋無垢なる魂が汚された事を穢れとする。

性から切り離した愛が純粋な愛である。即ち、純愛である。
純粋な愛は、親の愛にみられる。
この様な愛が神の愛である。

純粋な愛を穢す行為として近親相姦は許されない。
それは無垢なる魂を穢すからである。

しかし、それさえも悔い改めれば神は許してくれるだろう。

愛という言葉は、日本語からみて「切ない」という意味が込められます。切ないほどかわいいとか、愛(いと)おしいという意味です。そして、愛おしい程かわいくて愛(め)でるという意味です。恵むという意味が源にある。

現代日本には、愛という言葉が氾濫している。しかし、巷間、流布する愛という言葉の背後に、なぜかドロドロとした人間模様が見え隠れする。
相手に対する透き通った思い、気遣いという意味が感じ取れない。
それは、今の日本人が愛を男女間の問題に限って使っているからである。
愛が人々を救えるとしたらそれは、愛する人への純粋に思いがあるからである。

愛が全てであるように現代の人々は言う。
しかし、恋愛という者が公式に認められてから未だ日は浅いのである。
今、人々は愛を自明な事のように言うが、戦前は、自由恋愛など考えられなかったのである。
人と人との愛は、絶対ではない。人の気持ちは移ろいやすいのである。
絶対的な愛は、神の愛である。
人を思いやり、慈しみ合う事を突き詰め透徹したところに神の愛の出現する。

思い思われ、相思相愛ならば良いが、片思いは辛い。
片思いの辛さが男を猛々しくもする。
愛は人を傷つけもする。
愛は、幻ではない。現実である。
現実の己の姿を露わにする。
自分の弱さ、醜さをあからさまにする。
人に愛されたいとあがき苦しむ。
時には、自分をずたずたに引き裂いてしまう。
それも又愛の実相である。
劣等感の多くは、性に関する事に起因する。

人は、愛故に、飢え渇く。

愛は、エロスに始まり、フィリア、ストルゲーを経てアガペーに昇華する。
愛欲、嫉妬、妬みから解放され、同胞や家族への気遣い、思いやり、そして、万人の幸せを祈って献身的に奉仕する。

性と愛とは違う。
それは肉体的快楽と、魂の歓喜とが違うように。
純なる魂が透き通っているように、純なる愛も透き通っている。

純化されない愛は、欲によって憎悪や恨み、嫉妬となって現れる。
人を夜叉にも変える。

慈母の愛は、自分が犠牲にしてもこの幸せを祈り、夢を実現させてやろうと思う。
純化されない愛は、人を狂わせる。

神は、悔い改めれば、全てをお赦しになる。
それが神の愛である。
神の愛は、無条件で無償の赦しである。

現代人は、愛という言葉に甘え、愛の持つ透き通った厳しさを見ようとしないからである。
愛の底にある暗闇を見ようともせずに。
神の愛は、許しによって完結する。

愛を純化するのは神の信仰である。

たった一度の過ちというが人生は一度しかないのである。
たった一度の過ちがその後の人生を狂わせてしまう事はたびたびある。
例え、愛故にと言われても許されない事がある。否、愛故に許されないのである。
欲望によって愛の純粋さを穢す事は許されない。
一度の衝動的行為を愛という言葉で許されるはずがない。その様な愛は、偏狂的な愛である。

無分別な衝動的行動は、愛する人を傷つけずにはいられない。
愛する人に傷つけられてもなおその人を慕うのは、愛の業火である。
何もかも、全ての恩讐を焼き尽くしてしまう。

真実の愛は自制心を促し衝動的行為を抑制する。
愛するが故に、自分を厳しく律する必要があるからである。
イエスにしても、釈迦や、ムハンマドのような聖人達も人間に対する真の愛があったからこそ、自らを厳格に戒めて生きていたのである。

真の愛の姿は、激情ではない。真の愛の姿は、静粛である。
真の愛の姿は、淫らではない。真の愛の姿は清浄である。

幼子を見る母親の眼差し。それが愛である。

純なる魂にこそ純なる愛は宿る。
そのとき、神は、出現するのである。

一期一会。
愛は、邂逅に始まる。
それは、神の恵みなのである。




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